ピリピ人への手紙 4:4-9
礼拝メッセージ 2022.12.18 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.“主にあって”、喜ぶということ
パウロはピリピ人の教会に、日常生活におけるキリスト者のあり方を教えています。その教えは、「いつも喜び(4節)」「寛容な心(5節)を持ち」「思い煩わない(6節)」ということです。特に、「喜びなさい」ということは繰り返して2度も言われています。
平和で穏やかな生活がこのような状態を実現させると考えられるかもしれません。しかし、当時の状況からは、いつも喜んではいられないこと、寛容を示せない人がいること、思い煩わずにはいられないことがあるということが、想像できます。
パウロは獄中からピリピの教会に手紙を送りました。彼は迫害の中にあって、「喜んでください」と伝えているのです。このことは、手紙全体を通して繰り返し語られています。どんなに苦しい時にも、空元気を出して、喜んでいなさいというのではありません。パウロは、かならず“主にあって”喜びなさいと勧めています。
彼は手紙の冒頭で、「私の身に起こったことが、かえって福音の全身に役立つことを知ってほしいのです(1:12)」と語っています。パウロは、投獄されたことがかえって、キリストを宣べ伝えるきっかけになったのだと受け止めています。通常は苦難と思われる出来事さえも、主にあって受け止めることで、喜びに変えられることをパウロは経験していました。そして、ピリピの教会もそうであってほしいと願い、信仰を励ましています。精神面での芯の強さではなく、“主にあって”物事を見る目を養うことが、いつも喜んでいるための秘訣ではないでしょうか。
主にある信仰のみが、苦難にあっても喜ぶことを可能にします。パウロの「喜びなさい」という言葉は、単純な励ましである以上に、意気消沈している教会の信仰を立ち返らせるために必要な信仰の勧告であったのかもしれません。
2.“キリスト・イエスにある”神の平安
「寛容な心が、すべての人に知られるように(5節)」という教えは、教会の外の人間関係も念頭に置いている言葉だと考えられます。寛容とは、私たちが願うような「寛大で、親切である」ということ以上に、困難なことであったと思われます。それは、当時の教会にとって、攻撃されている時にも復讐をせず、試練の中においても身を低くする心であることを意味するものであり、ピリピの人々にとって不可能にも思えるような理想的な教えであったのではないでしょうか。
「寛容であること」について、パウロは「主は近いのです」と補足して警告しています。これは、「主がともにおられる」ということもそうですが、これは再臨の時が近いことを念頭に置いている言葉であると考えられます。
そして、「感謝をもってささげる祈りと願いによって、願い事を神に知っていただく(6節)」こともまた、いつも主にあって喜び、思い煩わないでいるための秘訣であると言えます。
思い煩いとは、無意識に神を否定していることでもあります。この「思い煩わない」ということもまた、強い精神を持つ必要はなく、心配や不安があれば、主に願い事を知っていただくということです。「何も思い煩わない」とは一見、不可能にも感じるかもしれませんが、その解決策は非常に具体的で、神に祈るということです。
そして、そうすれば、「すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(7節)」。神の平安による守りは、キリスト・イエスにあってのものです。
3. キリストにある、神の平和のために
パウロは、「最後に、兄弟たち(8節)」と、一般的な良い行いを追求していくことについて、勧めています。キリスト者は十字架の恵みに支えられて、教会生活に限らず、すべての良い行いに目を留めていくべきではないでしょうか。私たちは、日常生活のこと、家庭、経済、政治、学問、その他すべての領域に至るまで、良いとされることに心を留めて、行動していくべきであることを思わされます。
パウロの信仰は、キリスト者でない者にとっては非常に奇抜で、危険であると判断されたため、迫害によって投獄されていました。しかし、だからといって、世の中のすべての事柄に反発していたのではありません。彼の基準はすべて“主”にあり、福音が広がっていき、神の平和が人々の間にもたらされるためならば、どんなことにも励んでいくべきであると考えていたようです。決して一匹狼のような信仰者ではありませんでした。イエス・キリストが真の平和をもたらしてくださったからこそ、その平和が人々にもたらされることを心から願い、そのために動き続けた信仰者でした。
イエス・キリストがこの世に遣わされ、成し遂げてくださった出来事すべてが、パウロの価値観・生き方に喜びを与えました。私たちの価値観・生き方は、“主にあって”のものでしょうか。日々、喜びを受け取っているでしょうか。私たちも、「いつも主にあって喜びなさい」というパウロの言葉を、信仰の励ましとして、時には信仰の勧告として真摯に受け止めていきたいと思います。そして、キリストが人の姿になられてまで、この世を愛してくださった意味をより深く知っていくことができたらと願います。