「いちじくの木の教え」

マルコ福音書 13:28-31

礼拝メッセージ 2021.11.14 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


救済史の見方

 終末に関する教えが続きます。エルサレム神殿の崩壊(紀元70年)とこの世界の終末とが重ねられるようにして語られてきました。それを受ける形で、終末の時間についてイエスは語ります。キリスト教会は、神の救済を時間から考えてきました。それを救済史と呼びます。天地創造から始まりこの世界の再創造(救いの完成)までの、神によるこの世界の救済の計画を歴史的に理解して、説明してきたのです。多くのキリスト者がマルコ13章をはじめとする、いわゆる終末預言をその救済の時間的な流れから理解し、この世界の終わりに関する記述として読んできました。そのような終末の考え方について私たちはどのように考えるべきでしょうか?


いちじくの木の教え

 イエスはいちじくの木を再び、説明の材料として用います。どのような植物でも、それぞれ葉をつけ、花が咲き、実がなる時期があります。それは季節の巡りに応じて、各々の時期を迎えます。いちじくの木から葉が出てくると夏が近づいたことを知ることができるとイエスは言います。植物の変化が季節を知らせるように、この世界の動向が終末の到来を告げ知らせる、そのように語られています。これまで語られたことが起こるのを見たら、人の子がやってくることを悟ることができます。戦争、地震、人心の動揺、偽預言者の登場、イエスの弟子への迫害などが人の子の来臨という終末への予兆になっていると言われています。このような予兆の出来事がすべて起こるまで、この世界は過ぎ去ることがありません。つまり、予兆とされる出来事はすべて起きなければならないことになります。逆に言えば、予兆の出来事が終わってしまえば、この世界は確実に滅びるのです。


予兆としての出来事?

 聖書が記された初代教会の時代、メシアの来臨によってこの世界の救済が完成すると信じていました。それが終末の意味です。神が救済に向けてご自身の働きをなさるのです。だから、イエスの生涯、死、復活の出来事も終末論から理解されるようになりました。しかし、この世界は神に逆らい続けます。自己の利益を求めて、神を蔑ろにし、その価値観を拒絶します。自然災害においても、神の価値観に反することが起きます。大きな地震やパンデミックが起きたときに、社会的な弱者が最も苦しい立場に追いやられてきたことを私たちは見聞きし、経験してきています。生活の再建について放置されるのは、いつもこのような人々です。イエスは人々の苦難の経験と終末とを結びつけていますが、終末の時期そのものについては明言を避けています(32節以下)。初代教会の人々の中には、当時の世界の騒乱や教会の人々の死を目撃する中で、終末が近いと動揺し、日常の生活に支障をきたす人々がいたことを示唆しています。そのような人々の動揺は昔の出来事だけではなく、いまでも同じです。大きな災害が起きたときに、終末が近いと言って冷静を失う人がいます。しかし、災害も戦争もどのような時代においてもつねに起きてきたことです。


終末という生き方

 初代教会は終末の時代を生きているという意識を持っていました。それは現在の教会でも変わりありません。しかし、終末に生きるとは、イエスが終末への予兆として語ったことに右往左往することではないし、ましてや終末の正確な時期を知ることでもありません。終末は、神の救済の働きを意味しています。イエスにおいて神の救済を行ったという意味では、終末は「すでに」始まっています。そして、救済の完成という「いまだに」到来していない未来の終末を期待して生きています。終末を考えるときに、この「すでに」と「いまだに」とを知っておかねばなりません。イエスを通して神の価値観が示され、救済が完成していくならば、私たちはイエスに従って生きていくことが真の終末の生き方です。だからこそ、イエス自身の言葉は滅びないと宣言します。救済の完成とはイエスによって示された神の価値観がこの世界に実現することです。いまの世界が滅びて、新たな創造がなされても、そこにはイエスの語る価値観が成就されていくのです。神を大切にし、人々を大切にする世界、互いが尊重し合い助け合う世界、そのような救済の完成を見ているのです。予兆とされる出来事に振り回されるのではなく、そこに苦難を経験している人々がいれば、その人たちが助けられるように祈り、働くのが終末の生き方です。苦難を経験する人々は終末予兆のための時計ではありません。救済の完成を期待し、イエスがもたらした救いに生きたいものです。