ヨハネの福音書 9:13-23
礼拝メッセージ 2025.11.30 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
安息日をめぐって
視力回復の奇跡が、この奇跡が安息日に行われたという課題が記されています。癒しという奇跡やその行為自体は神の業として受け入れられますが、その業が安息日であったことが問題となっています。ユダヤ社会では、安息日に仕事をすることが許されませんでした。この奇跡も仕事の一つとされたのです。
イエスとは誰か?
この安息日に行われる業という課題は、イエスとは一体誰なのか?その様な議論へとつながっていきます。律法を文字通りに遵守するパリサイ派は、安息日には仕事をしないことが神のみこころと捉え、安息日に奇跡を行う人物など神に由来しないと断定します。何が行われたのか、イエスがどのような意図で奇跡を行ったのか、まったく問わないでイエスを裁きます。反対に、行われた業に注目し、イエスが神によって遣われた人物であることを認めようとする人々がいました。安息日の形式ではなく、彼らは業の中身を問題にしています。
男性への問いかけ
この論争に決着がつかないので、物語の主人公である癒しを経験した男性に問いかけがなされました。「あなたは、いったいイエスをどのように考えているのか?」それに対して男性は「あの方は預言者です。」答えています。12節では、この男性は「知りません」と述べていますが、徐々に男性の意識が変化していることが分かります。この意識は、もっと大きく変わっていくことになります。
大切なこと
安息日をめぐる議論で問題の一つは、人々のイエスの奇跡に対する反応です。ある人々はユダヤ教の習慣に基づいて、その業の内容ではなく、その時期(形式)を問題にしました。その反対の人々は、時期の問題には注意せずに、その奇跡の内容からイエスを認めようとしています。前者はイエスによって退けられることは確かでしょう。神の救済の業が、いつでもどこでも起きておいとイエスは考えていたのです。救いを必要とする人々がいれば、それは神のみこころとして起きるのです。実は、現在のキリスト者もこの考えに染まりやすいのです。教会の伝統や聖書の表面的な解釈に捕らわれて、人々が神の救いを必要としているのに、伝統や解釈を口実に何もしないで、見て見ぬふりをすることがあります。一方、イエスの奇跡の内容に注目した人々にも問題はありました。彼らが注目したのは不思議な力であり、その当事者(神の業を行った人と神の救いを経験した人)のことや、当事者同士の関係性などは念頭にはありません。神の業は人間の理解が及ばないから素晴らしいのではなく、救いによって人々が神のみこころにかなって生きていくから素晴らしいのです。ここにもキリスト者が陥りやすい危険があります。多くのキリスト者は人知を超えているから神の業であると理解し満足しますが、人間を見ていないことが多いのです。
本日の聖書箇所の場面では、癒された男性だけがイエスを神からの預言者として告白する資格を持っています。神の預言者は、神に属し、神から派遣され、神の言葉を語り、神の業を行います。神は人間を通してその救いの業を行うのです。それは必要に応える業であり、人間の関わりです。この男性の証言は、業の証しのみではなく、イエスとの出会いにまで及んでいきました。神の救いは、私たちの伝統や解釈に制限されるものではありません。また、神の救いは、それを本当に必要とする人々に向けられるべきであり、それは人間を通じて行われるのです。
