「あなたは選ばれた」

ペテロの手紙 第一 1:1ー2

礼拝メッセージ 2020.1.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,離散者(ディアスポラ)ー父なる神の予知のままに

 宛先を見れば、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち」となっています。この地名を聖書地図で確認すると、五つの地名は黒海の南にある四つのローマの属州を示していることがわかります。小アジアであり、現代のトルコという国の諸地域です。この書はパウロ書簡にあるような個別の教会に送られたものではなく、広い地域の人々に向けられたものでした。
 ペテロは、宛先である彼らがどのような人々であるのかを示して、三つのことばを使っています。1節「…に散って寄留している選ばれた人たち」。その三つとは、第一に「散って」、第二に「寄留している」、第三に「選ばれた人たち」です。
 まず、「散って」とは離散している人々のことで、ディアスポラというギリシア語が使われ、「撒き散らす」という意味のことばです。これはパレスチナ以外の異教の諸国に離散させられて住んでいるユダヤ人を指す術語でした。しかし、多くの注解者が記しているように、ここでディアスポラというのは、彼らがすべてユダヤ人であったのではなく、別の意味を含ませた表現でした。いろいろな地域に住んでキリストを信じて歩んでいる人たちを指しています。ディアスポラという語が元々示しているように、彼らが様々な地域に住んでいるのは、迫害という理由があったかもしれないし、主を信じる者たちだけで一緒に住むことのできない理由があったとも考えられます。
 しかし、次の2節の最初に書かれているように、それは「父なる神の予知のままに」よって、そのように導かれたのであるとペテロは言います。彼らがポントスの中に住んでいるのは、あるいはカパドキアにいるのは、「父なる神の予知のままに」導かれているからだと言うのです。旧約聖書から新約聖書の中に描かれている神の民の歩みは、決して平坦な道を行くようなものではありませんでした。天災によって飢饉が起こったり、戦争で領土が占領され、捕囚民として移動させられたりして、安住できる場所もなく、さまよい続けた歴史でした。
 これは私たちのメノナイトの歴史も、同じようなことが言えます。再洗礼派運動に身を投じた人々は、迫害につぐ迫害の中、ヨーロッパからロシアへ移動し、ロシアからアメリカへという道を辿りました。まさにディアスポラとして、アメリカだけでなく、いろいろな国々に逃れ、散らされて行ったのです。
 今日の私たちも、広く捉えると、みながディアスポラではないかと思います。個々の事情はどうであれ、みなそれぞれ異なった土地に置かれています。そしてそれは「父なる神の予知のままに」ということでした。私たちは神の大きな御心の中に生かされ、導かれているのです。


2,寄留者(パレピデーモス)ー御霊による聖別によって

 次に、神の民を指している表現が、「寄留している」ということばです。「寄留者」とは外国に一時的に住んでいる人のことです。しかし、ここの「寄留者」という表現は、それ以上に、天に国籍を持つ私たちすべてを指してのことばなのです。
 この「寄留者」という同じ語が2章11節に出て来ます。「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい」。そしてこれと同様な表現がヘブル人への手紙にもあります。「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」(ヘブル11:13)。
 これらの聖書箇所からも明らかなように、この「寄留者」とは地上的な意味ではなく、霊的な意味において「寄留者」であるということです。この地上にいる間、どんなに立派な家に住んでも永遠の住まいの視点で考えれば、すべて一時的なものにすぎません。モーセが詩篇90篇で語ったように、天地万物を造られた神ご自身が私たちの住まいなのです。「主よ 代々にわたって あなたは私たちの住まいです」。
 この地上で「寄留者」として生きることには、常に戦いがあります。しかし2節で「御霊による聖別によって」と書いているとおり、御霊ご自身が、寄留者として生きる神の民である私たちを絶えず清めてくださり、傍らに常にいて励ましを与え、確かな歩みへと導いてくださるのです。


3,選ばれた者(エクレクトス)ー主への従順と血の注ぎかけ

 日本語訳の順序で行くと、「散って寄留している選ばれた人たち」と、「選ばれた」が最後になりますが、ギリシア語本文では、最初に出て来ます。文法的な話をすると、この「選ばれた」ということばが、どのことばにかかるのかということが注解書などでは論じられています。『新改訳2017』では、2節で「…またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ」と訳しています。ギリシア語聖書にはこの「選ばれた」ということばは1節にしかありません。しかし、そうすると日本語として理解しにくいので、補っているのです。しかし、この「選ばれた人」が2節にも繰り返されることで、神の民が何のために、どういう目的や使命のために、神によって選ばれたのかがわかりやすくなっています。私たちは、キリストの従順にならうため、キリストの流された血を注がれるため、神に選ばれたのです。この二つのことが主の民として選ばれたことの目標であり、進み行く先です。
 まず、キリストの従順ですが(新改訳では「イエス・キリストに従うように」)、このことは2章21節以降に記されています。「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された…」。
 そして次に、「その血の注ぎかけを受ける」ことですが、旧約聖書によると、犠牲の血の注ぎかけは、三つの場合に行われました。一つはシナイ山で契約を結ぶ儀式の時(出エジプト24:5〜8等)、二つ目は祭司職の任命の儀式で(同29:19〜21等)、第三にツァラアトからのきよめの儀式において(レビ14:2〜7)です。ペテロはおそらくこれら三つのことを踏まえて、主の十字架による、その血の注ぎかけを示したのだと思います。私たちは主と新しい契約を結び、王である祭司となり、罪の汚れから完全に赦し清められるのです。