列王記 第一 3:3-15
礼拝メッセージ 2020.5.24 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.父ダビデの意志を受け継いだソロモン
このソロモンの物語の1つ目のポイントは、イスラエルの王ソロモンは父ダビデが彼に残した遺言をよく理解し、父の意志を受け継いだ主を愛する王であったということです。
ソロモンの父ダビデは列王記において、「主の命令と掟を守り、主を愛し、主の道に歩んだ」王として評価されています。そのダビデが息子ソロモンに残した遺言の重要なメッセージとは、何があっても主の道を歩みなさいというものでした。列王記では、この「主の道を守る」ということを軸にして、イスラエル王国の歴史が展開されていきます。ダビデ以降のイスラエルの王たちは、いかに国を繁栄させ、成功させたかという点に関心が置かれず、それぞれの王の歩みが「主の目にかなったか」、「主の目に悪を行なったか」、という基準で評価されています。今日の聖書箇所は、ソロモンの王位が確立したすぐ後に記述されているソロモンの治世の始まりの部分です。「ソロモンは主を愛し、父ダビデの掟に歩んでいた(3章3節)」。ソロモンはしっかりと父ダビデからのバトンを受け取っていました。
物語は4節から動き始めます。ソロモンはギブオンと呼ばれる土地の祭壇の上で千匹の全焼のいけにえをささげます。そこは最も重要な高き所であったと言われます。こうしてソロモンがギブオンに滞在していた夜のこと、主がソロモンの夢に現れて、言われました。「あなたに何を与えようか。願え」。するとソロモンは主に応答します(3章6節)。ソロモンの言葉からは、父ダビデの祝福は主からものであること、ダビデが主に対して忠実に歩んだ王であったことを、ソロモンがよく理解していたことがうかがえます。ソロモンは、父ダビデの言葉を心に留め、主を愛することこそが、イスラエルの王として最も重要なことであると知っていました。また、「あなたはこの大いなる恵みを父のために保ち、今日のように、その王座に着いている子を彼にお与えになりました(3章6節)」と、自分のことを「その王座に着いている子」と客観的に表現します。大いなる恵みを与えておられるのは主であり、自分は父に対する主の恵みを保つための存在、すなわち、このイスラエルの主権者は王である自分ではなく主であり、父の王座を受け継いだ自分は、主から父ダビデへの恵みを受け継ぐ存在であると理解していたのです。イスラエルの王ソロモンは、父ダビデの意志を受け継いだ主を愛する王でした。
2.主の民を治める王として
ソロモンは、イスラエルの王としての自分の立場、自分のすべきことをよく理解していました。ソロモンは主の提案に対して、「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください(3章9節)」と要求しますが、7-8節で、この要求が自分にとっていかに必要であるのか、その理由を伝えます。ソロモンは、父ダビデに代わって自分を王としたのは主ご自身であることを理解したうえで、自分は王として未熟であること、さらにイスラエルにはあまりにも大勢の民がいて治めることが困難であることを話します。このようにソロモンには、神によって立てられた王であることの自覚がはっきりとあり、それゆえにイスラエルの民を治めることの責任の重大さを感じていました。父ダビデへの恵みを受け継ぎ、主に立てられた王としての自覚、そしてその責任の大きさ、また現実的な政治の困難さ、これらのことが、ソロモンに「主の民をさばくために聞き分ける心」を求めさせました。主に立てられたイスラエルの王ソロモンには、王として主の民を治める責任の強い自覚があったのです。
主はソロモンが願ったものに加えて、富と誉れをもお与えになりました。しかし、彼の長寿に関しては条件をつけておられます。これ以上願うものがないというほどにソロモンは恵みを受けましたが、彼の長寿に関することだけは、「あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう(3章14節)」と言われます。主はソロモンに、「あなたはすでにわたしを愛し、父ダビデの道に歩んでいるから、これで十分です」とは言われませんでした。主は、最後までご自分を愛し続けることを願われたのです。
3.「わたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら」
自分もソロモンのように、「あなたに何を与えようか。願え」と主に言われたとしたら、何を願うでしょうか。というよりもむしろ、私たちは、主に選ばれた者としての自分の責務をどのように自覚しているでしょうか。また、その責務を果たすためには、自分にはどのような未熟さがあるでしょうか。私たちには、主を愛するがゆえに、また主に選ばれた者として、養うべき人、治めるべき家庭、果たすべき仕事、励むべき勉学、目を留めるべき社会問題、日本のこと、世界のことなど、それぞれが置かれている状況に応じた務めがあるはずです。その自分の務めを果たすためには、自分にはどのような未熟さがあり、何を主に願うでしょうか。
私たちには、何でも与えることのおできになる主に祈り求めることがゆるされています。主は、ご自分の道を歩もうとする人の願いを喜ばれるお方です。ですから私たちは、今、主から与えられている自分が果たすべき務めを自覚し、そのことのために熱心に祈り求めるべきではないでしょうか。
そして何をするにも、どれだけ年を重ねても、「あなたがわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら(3章14節)」という主の願いと心に留め、主を愛し続ける者でありたいと願います。また、この石橋教会が、私たちが最後まで主を愛し抜くことを力づける共同体であり続けるようにと願います。