ローマ人への手紙 1:8ー15
礼拝メッセージ 2017.3.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,私は、感謝しています(8節)
序文としての祈り
内容から見ると、8節からがこの書の序文です。では、その前の1〜7節は何であったかというと、差出人と宛先が書いてありました。ところが、差出人を名乗るところから、パウロは福音を短く説明しました。前回説明しましたように、福音なしに自分という存在を説明することができないと思っていたからです。
では、それに続く序文の8節からは何が書かれているかというと、一般的な時候の挨拶などではなく、パウロは自分の祈りの生活について語っています。自分の祈りの生活を示すことで、自分のナマの姿を伝え、宛先のローマの教会に対する思いを示すことができるからです。日々の祈りの内容を見れば、その人の心や思い、何を大切にして生きているのかがわかるものです。パウロが祈りのことから、この手紙を始めているのは、相手の懐に飛び込んで、私はこういう者です、とありのままの自分を表現し、彼らと信仰の友情を結びたい一心からだったと想像できます。
まず第一に、感謝
パウロの祈りは、感謝の言葉から始められています。これは人間関係においても、大切なことであると思います。「まず第一に」と書き始めているのに、続きを読むと、第二、第三という表現は出て来ません。パウロの表現の癖であったのか、あるいはまた、口述筆記のためであったのかもしれないと言われますが、私は単純に「まず第一に」すべきことが「感謝」であることを示すためであると思います。私たちが第一にすべきことは、何よりも神への感謝であり、人々への感謝であるということです。すべてはここから始まるのです。
では、なぜ感謝できるのか、その理由も書いています。「それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」(8節)。もちろん、これは誇張された表現かもしれません。おそらく、当時のローマの教会は、家の教会を中心としたものであり、せいぜい100名ぐらいの信徒であったと考えられています。ローマは、当時、世界の中心都市でした。すべての道はローマに通じる、と言われ、地中海世界を治めたローマ帝国の首都でした。その中にいるクリスチャンと言えば、非常に小さなグループでしかなかったのです。でも、パウロは「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」とまで言ったのです。それは人口の割合から言っているのではなく、これから展開されていく神の福音、全世界の造り主を信じる信仰というものの大きさを覚えてのことでした。今は小さな種にすぎないかもしれない。しかしやがて大きく増え広がり、全地に満ちるようになることを、預言的に表現したとも言えましょう。
2,私は、祈っています(9節)
次に、パウロが記していることは、執り成しの祈りと呼ばれるものです。執り成しの祈りとは、他の人たちのために祈ることです。祈りの醍醐味は、自分のためだけに祈るのではなく、他の人たちのためにも、祈れることにあると言えます。教会で毎月発行している「祈りの友」(A4両面の印刷物)の中に、毎月の誕生日を迎える人のリストがあります。これはお互いを知る交わりのためでもありますが、本当のところは、皆様の執り成しの祈りに加えて欲しいためです。リストを見るだけでは、固有名詞の羅列にすぎないように見えますが、祈り心で見つめると、そうではなくなるのです。その人の名前を、祈りの中で口にするとき、その人の顔や姿が思い浮かんで来ます。
パウロは知っている人たちのことだけではなく、会ったことのない多くのローマの兄弟姉妹や求道者のためにも祈っていました。会ったことのない、面識のない人たちのためにも、祈りを捧げることはできます。確かに、顔を思い浮かべるようなことはできません。しかし、祈りが、地理的距離や国境、人種などの違い、あらゆる隔たりを飛び越えることができるものであることを知ることができます。
3,私は、切望しています(10〜13節)
賜物を分けたい
3番目に記されていることは、本日のタイトルにしましたように、「あなたに会いたい」という強い願いです。宗教や、信仰の世界は、ともすると、高められれば高められるほど、人を孤高にし、誰もついて行けない境地に至らせるようなイメージがあります。でも聖書が示す信仰は、それとは全く違っています。パウロは何か超絶した聖人のような人かと思うと、そうではありません。彼は、人との交わり、心と心を結ぶ絆を強く求める人でした。「あなたに会いたい」とストレートに言うような人だったのです。
では、なぜ会いたいと書いているのでしょうか。それには、二つ理由が述べられています。第一に、賜物を分けて、あなたがたを強くしたいから、と言います。パウロには、使徒の権威という力が付与されていましたから、預言者エリヤがエリシャにしたように、自分の賜物を他の人たちに分け与える力があったかもしれません。でも、これは今日的に理解すれば、賜物とは奉仕に繋がっているものであることを思うと、どのように奉仕を捧げるのかを教えることであったと思います。各々の信仰者たちに与えられている賜物についてしっかりと教え、主にどのように仕えて生きるのかを悟らせる教育でした。手紙で伝えるだけではなく、顔と顔とを直接合わせ、彼らの信仰を訓練して整え、揺るぐことのない信仰により、彼らが歩んで行くようにパウロは願っていたのです。
ともに励まし合いたい
強く見えるパウロでさえ、交わりが必要でした。他の人たちからの励ましを欲していたのです。それも「互いの信仰によって」の励ましです。新約聖書が繰り返し語っていることは、まさにこの「互いに」ということです。日本語訳で調べると、新約聖書に93回「互いに」という言葉がありました。互いに赦し合いなさい、互いに仕えなさい、互いに受け入れなさい、互いに訓戒し合う等とありますが、一番多い「互いに」が付いている勧めの言葉は、互いに愛し合いなさい、です。実に、交わりだけが、この「互いに」という主からの中心的な命令を実行できる道なのです。