ルカの福音書 2:1-14
礼拝メッセージ 2023.12.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,この時代だからこそ、クリスマスを思い起こそう
この一年を振り返って心に浮かぶことばは、「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇42:5、11、43:5)です。心をうなだれて、思いを乱れさせるような苦悩の大きな黒雲が、この世界を覆って、私たちを閉じ込めているかのように感じます。同じく、詩篇42篇に繰り返されるセリフのように、「おまえの神はどこにいるのか」というあざ笑う敵の声、世の声が響いてきます。
聖書に目を向けると、クリスマスの知らせを聞いた人たちのことが、ルカの福音書の最初の二章に記されています。突然ことばを失った老年の祭司、結婚する前に妊娠した十代の女性、そして家畜の世話をしていた深夜労働従事者たち。社会で弱く見過ごされていたそうした彼らに宛てて、地球最大の出来事であるクリスマスの良きおとずれのメッセージが、最初に届けられることになったのをルカは明らかにしています。
この聖書のことばに向き合うと、当時、誰も神からの助けや救いが来るとは全く期待しておらず、むしろ重苦しい閉塞感や圧迫を人々が感じていたような中で、このクリスマスの出来事が突如として起こったように見えます。天空を破って、神が肉体となって降りてきた、突入して来たのです。そのクリスマスの出来事で中心となるメッセージ内容が、この御使いのことばです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節)。
2,「今日ダビデの町で」
「今日ダビデの町で」とありますが、まず「ダビデの町」ということばです。ローマ皇帝の勅令で、住民登録のために、皆が自分の町に戻って、登録しなければなりませんでした。ヨセフはダビデの家系だったので、ベツレヘムに行ったのです。なぜ、御使いは「ベツレヘム」と言わず、「ダビデの町」と言ったのでしょう。「ダビデ」は、キリスト降誕の1000年前にイスラエルの王だった人物です。このダビデの子孫から、救い主が生まれることは以前から預言されていました。ルカの福音書の記事を遡ると、受胎告知の場面で、御使いガブリエルはマリアにこう言いました。「神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」(1:32)。祭司ザカリヤはこう歌いました。「救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」(1:69〜70)。やがてイエスは人々からこう呼ばれるようになりました。「ダビデの子のイエス様」と(18:38〜39)。その預言者によって告げられていたこと、ダビデの子孫である方として、すなわち王として、ダビデの町に生まれたことがここに明らかになり、数百年も、千年もその約束を待ち望んでいた人々のため、「今、生まれました!」とここで御使いは宣言したのです。
そして次に「今日」と御使いは言いました。この「今日」が西暦何年何月何日であったのか、実は明確にはわかっていません。ただ、ここの「今日」ということばには、日時を特定する以上のことが含まれているのです。羊飼いたちも、「今日!」と聞いたのですが、ルカの福音書には、これ以降も、「今日」という宣言が繰り返し出て来ます。「イエスは人々に向かって話し始められた。『あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。』」(4:21)。「人々は…言った。『私たちは今日、驚くべきことを見た』」(5:26)。「イエスは彼(ザアカイ)に言われた。『今日、救いがこの家に来ました。』」(19:9)。「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」(23:43)。
このように、この福音書の中で繰り返し語られる「今日」とは、その人たちにとっての「今日」であり、キリストと繋がった全く新しい「今」ということなのです。それは、昔の日々のことではなく、神の御前においての「今日」という新たな一歩を踏み出す開始の日なのです。それは、「明日」や「いつかそのうち」でも、遠い未来でもありません。それゆえに、ヘブル人への手紙で「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(ヘブル3:7〜8、13、15、4:7)と警告を含みつつ語られているのです。
3,「あなたがたのために」
次に「あなたがたのために」とあります。この御使いの声を聞いた人たちは、羊の群れのために夜番をしている羊飼いたちでした。10節で「私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」と言っています。このことで明らかに神が仰せになっていることは、神からのメッセージは時空を超えて、この話を聞く一人ひとりに向かって、語られているということです。すなわち、この「あなたがた」とは、まさに「あなたがた」、私たちに向かってのものであるということです。ですから、カルヴァンはこの聖句をこう解説しています。「『あなたがたに』というこの言葉が付け加えられているのは、やはり理由があり、それを考察することはよいことである。というのは、御子がお生まれになったのは、自分のためだということを確信して、それぞれの人が自分自身にあてはめるのでなければ、救い主が生まれたことを知っても、多分何の役にも立たないからである。」(『新約聖書註解 共観福音書(上)』森川甫訳)。クリスマスは、私たちに関わる、私たちについての、私たちのために起こった救いの出来事です。そしてそれは、私たちがどういう者であるのかを何も問いません。年齢、立場や状況、能力、経済状況も、その他何も関係ありません。条件のない「あなたがたのために」なのです。しかも、それは私一人というのではなく、複数の「あなたがた」、「私たち」です。御使いは言います。「今日、あなたがたのために」、「今日、ここにいるみんなのために」と。
4,「救い主がお生まれになりました」
最後に、「今日、あなたがたのために」、だれが生まれたのか、それが「救い主」です。「救い主」はギリシア語「ソーテール」ですが、危険や危機から救出する人、あるいは良い状態へと回復してくれる人のことです。私たちのためにお生まれくださった主イエスは、救済、助け、解放を与えてくださるお方であり、この方なしに罪の赦しも、滅びからの救いもありません。この救いはすべての人が必要とする救いです。冒頭で、詩篇42篇5節のことばを言いましたが、ユージン・ピーターソン師が訳した「ザ・メッセージバイブル」訳では、こうなっています。「わが魂よ、なぜ落ち込んでいるのか。なぜ憂鬱に泣いているのか。神に目を向けよ。すぐにまた賛美するようになる。彼は私の顔を笑顔にしてくれる。彼こそ私の神だ」。今日ダビデの町で私たちのためにお生まれになった救い主は、私たちの顔を笑顔にしてくれる私たちの神です。私たちを笑顔にし、キリストのいのちに溢れさせ、私たちを御国の働きのために立ち上がらせてくださる神なのです。