「『明かり』と『秤』のたとえ」

マルコの福音書 4:21-25

礼拝メッセージ 2020.11.1 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


「神の支配」のたとえ

 「種を蒔く人のたとえ」に続いて4つの譬え(たとえ)が述べられています。この4つの譬えは詳しい解説が記されておらず、さまざまな解釈ができます。譬え自体の意味は分かりやすく、それが指し示そうとする内容が書かれていても、それ以上にはイエスが言いたいことはなかなか理解することが難しいものです。ただ言えることは、マルコ4章の文脈からすれば、これらの譬えが「神の支配(国)」に関して語られていることです。「神の支配」は神の価値観あるいはその意志が実現している状況と理解することができますが、そこに生きようとする者でなければ、「神の支配」の意味を捉えることはできません。「神の支配」は決まった形ではなく、神が示す生き方そのものだからです。


「明かりのたとえ」

 そのような「神の支配」について、まず「明かり」という譬えを用いてイエスは語ります。譬え自体は分かりやすいし、私たちの生活の中では当然のことです。イエスの生きた時代は、芯に油を染み込ませて火をつけて灯にしていました。明かりは文字通り、暗く何も見えない場所を明るくするためです。そのために灯は全体を照らす場所に置かなければなりません。この譬えから、隠されているもので明らかにされないものはないとイエスは語ります。最初に隠されていて、後に明らかにされることとは何でしょうか?そこまで聖書は語りません。これは「神の支配」に関する譬えであり、この明らかにされるべきものとは「神の支配」と解釈できます。「神の支配」は理解することが非常に難しいことですが、分からないからと言って、それが特定の人々に閉じ込められるべきことではありません。イエスが語る「神の支配」はこの世界の出来事であり、地上における神の意志の実現だからです。イエスの弟子だけに明らかにされる「神の支配」の秘密は、必然的に人々に知られていくようになります。だからこそ、「神の支配」の言葉を聞く者たちは注意して聞き、その言葉が語られる意味に生きなければならないのです。


「秤のたとえ」

 次に、「秤」の譬えが語られます。ここでのイエスの最初のことばは、聞いている事柄に対して心を配ることです。すでに「神の支配」の言葉を聞いている者たちが持っている秤によって量られると言われています。「神の支配」は、神の価値観であると言いました。価値観ということは何らかの基準があります。神から見れば、このような事柄は受け入れられるが、このような考え方は受け入れられない、そのようなことを意味します。「神の支配」の言葉を聞いている者はそのような神の価値観に生きようとするものであるから、つねにある種の基準をもってこの世界を見て行動します。そのような基準によって他者を評価することは仕方ないにしても、その評価基準は自分にも適用されると言われています。しかも「それに付け加えられる」とも述べられています。この「加えられる」は、秤がさらに加えられることを意味し、自分への評価基準がより厳しく適用されることを意味していると解釈できます。「神の支配」の言葉を委ねられた者の責任の重さを感じさせるイエスの言葉です。


言葉を聞いた者の役割

 「神の支配」は、神自身によって進められていく業です。聖書を読むと、つねに神はこの世界に対して働きかけ、自身の意志を実現しようと試みます。メノナイト派の人々はその神の意志を「平和」という言葉で表現してきました。神は、人々が神を愛することを求めます。それは、感情的なことではなく、神の言葉を尊重して従うことを意味します。また神は、人々が互いに愛し合うように命じます。それは、人間が互いに尊敬し合い、助け合う生き方をすることです。「神の支配」について、このような2つの側面(神と人間との関係、人間同士の関係)によって語られています。「神の支配」は神の主導権によりますが、人間がそこに関わっていることを無視してはなりません。神は人間を用いてご自身の業を進めて行きます。だからこそ、神は私たちに語りかけ、その業に参与するように呼び掛けます。
 「明かりのたとえ」と「秤のたとえ」は、別々のことを語りながらも、人間が「神の支配」で役割を果たし、それに対する責任が与えられていることを語ります。イエスによって秘密として語られた言葉が、この世界で明らかにされなければなりません。それはイエスのことばを聞いた人々によってなされます。そして、その言葉を聞いた者には責任が与えられます。それは、神が私たちを信頼している証です。信頼しない者に対して誰も責任など与えはしません。神の価値観と意志はこの世界で明らかにされ、実現していきます。そこに希望を持つ生き方、その実現に加わる生き方を求めていきたいのです。