ヨハネの福音書 6:1-15
礼拝メッセージ 2025.1.26 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
パンという言葉
ヨハネ福音書6章では、パンという言葉がカギとなって、イエス自身が紹介されています。これまでは「水」という言葉がカギとされることが多いようでした。物語の譬えではなく、言葉一つでイエスが譬えられているのが、ヨハネ福音書の特徴の一つと言えましょう。
食べ物の奇跡でのイエスの意志
過越しの祭りのことが4節に述べられています。この祭りでは神の救いが祝われるのですが、これから起こる奇跡は、イエスを通して神の救いが実現していることを私たちも祝うことを意味しています。
パンの奇跡が起こされた経緯が説明されています。人々が集まりましたが、食べる物がないのです。そこでイエスの側からピリポに食べ物について提案します。これはイエスがピリポを試していると記されていますが、実はイエス自身がその意志によってこれから起こる奇跡の起こしたことを強調しているのです。ピリポはお金があっても食べ物をまかなえないと述べ、アンデレは見つけてきたパン5個と魚2匹では全く足りないと嘆きます。二人の弟子の言葉は常識的です。
食べ物の奇跡と人々の反応
イエスは与えられたわずかな食べ物を祝福すると、群衆を満腹にしました。パン屑も12駕籠になるほどでした。人々は驚愕し、イエスを預言者として認めたばかりでなく、王としようとしました。しかしイエスはこのような人々の要求を拒絶して、その場から逃げ去ります。イエスは人々から自分が利用されることを望まなかったようです。
食べ物と交わりの奇跡
非常に印象的であるが故に、この奇跡物語の意味について様々な議論がされてきました。ここにイエスが大切にした交わりを見出すことができるでしょう。交わりとは、楽しく共に過ごすことと思われがちです。しかし、イエスの交わりの根底にはもっと違った視点があります。まず、食事ということを考えてみましょう。イエスの交わりには食事が関わることが多いようです。イエスと弟子たちとの最後の交わりも食事という場所でした(最後の晩餐⇒聖餐)。私たちの環境であれば、食事をとることはそれほど難しいとは思えません。もちろん、働くことで食べることができるのであり、私たちにとっても食べることは簡単ではありません。しかし、イエスの周りには働いても食べることが難しい人々がいました。そのような厳しい状況の中での交わりとは、日常の生活を共に生きていくことでした。
この奇跡において食べ物が配られたことにも注目に価します。それぞれの手許で食べ物が増えたわけではありません。それぞれに配られています。この世界は日々多くの富を生み出してきたし、今もそうです。その富は私たちの生活のために必要だからです。しかし、その富が分配されずに、ある人々のところに留まって独占されるとするならば、それを受けるべき人々の手元に配られず、この人々は生活に困窮することになります。交わりにおける分かち合いは、旧約聖書に記された古代イスラエルの理想であり、新約聖書に記されたエルサレム教会の理想でもあります。聖書の時代もその理想が実現しませんでしたが、神の意思として語られています。皆が共に生きていくという目指すべき理想がそこにはあります。その理想をイエスは奇跡を通して実現したのです。
イエスがもたらした食べ物と交わりは奇跡的な出来事でした。しかし、その目指したところ(日常の生活を共にしていくこと、そのために分かち合うこと)は奇跡でなくても実現されます。イエスは私たちにもそのような理想の交わりを期待しているのです。