「聖書が語る未来予測図②—終末の大パニック」

マルコの福音書 13:14ー27

礼拝メッセージ 2015.3.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,大患難の時代のしるしは       (荒らす憎むべきもの)が現れることです(13:14−20)

①「荒らす憎むべきもの」とは何でしょうか?

 前回学びました聖書箇所は終末の前兆でした。イエスは「産みの苦しみの初め」(8節)と言われました。14節からは、まさに終末の苦難が示されているのです。英語聖書の小見出しでは「大患難時代」(The Great Tribulation)となっています。その苦難の時代のしるしとなるのが、「荒らす憎むべきもの」です。これはダニエル書9:27にある言葉です(他にも11:31,12:11)。「荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」 この言葉の示しているものは、偽りの神々の像や祭壇を指している場合もありますが、未来の終末の出来事として理解するならば、誰かはわかりませんが、ある人物を指していると思われます。おそらくテサロニケ第二2:3−4などの「不法の人」と関連があるでしょう。

②「荒らす憎むべきもの」が立ってはならない所に立っているとはどういう意味でしょうか?

 並行記事のマタイ24章では「荒らす憎むべきもの」が「聖なる所」に立っていると書かれています。「聖なる所」とは神殿のことのようです(参考;ダニエル9:27の七十人訳)。しかし、マルコはそのようには記さず、「立ってはならない所」と記しています。もちろん同じように神殿を指していると思いますが、同時にこう記すことで、荒廃をもたらす、嫌悪すべき存在が、立ってはならない所に立っているというのは、神殿だけに限定せず、もっと広く、捉えさせて警告としているのかもしれません。「立ってはならない所」である、例えば、教会や、私たちの心の中心など、神、主以外にその真中に座してしまわせてしまってはならない場所です。そうした主への離反や背教が、まさに大患難のしるしとなるのです。


2,大患難の時代の中で      (にせキリスト)が現れ、天体の異変が現れます(13:21−25)

①にせキリスト、にせ預言者が現れます

 いつの時代にも人々をだます、にせキリストやにせ預言者たちがいましたし、今もいることでしょう。でも、この大患難の中で、人々の心の動揺に乗じて、悪魔が働くということなのです。平和な世であればだまされなかったかもしれない人たちでも、危機的状況の中で、しるしや不思議を見せられると、それに惑わされることになるのです。でも、気をつけましょう。惑わされてはならないのです。

②天体の異変が起こります

 これが科学的、天文学的にどういう異変として起こるのか、だれもわかりません。ただ明らかなのは、それがとてつもない災いであり、世界が大パニックになるような大規模なものだということです。 こうした終末の記事を学ぶ際に必要なことを付け加えておきますと、終末論には、宇宙的終末論と個人的終末論があるということです。宇宙的とは、全世界的な視野で未来を論じるものです。そして個人的終末論とは、ひとりの人間として誰もが迎える終末、死の問題、死後のこと等を扱います。終末を考える際には、この両方の見方に立って理解することが大切です。そしてどちらの視野に立って理解しても、抱くことのできる究極の希望はイエスとお出会いするということです。


3,大患難の時代の終わりに        (キリスト)が再び現れてくださいます(13:26−27)

①どんなに大きな患難であっても、それはやがて終わりを迎えます

 26節と27節で「そのとき」という語が繰り返されます。この「そのとき」とは苦しみの終結を表します。どんな大きな患難の時が襲ってきても、それは一時的なことです。永久に患難が続く訳ではありません。同様に、私たちの個人的歩みのうちにおいても、苦しみは、後に続く永遠の祝福と比べれば、一瞬に過ぎないことを覚えて歩みましょう。

②キリストが再び来てくださることを待ち望みましょう

 新約聖書が明らかにしているキリストの再臨には、おもに4つの特徴があります。それは、第一に予期されないものとして起こります。第二に、人格的な出会いとして起こります。第三に、目に見えるかたちで起こります。第四に、肉体をもって主は来られます。イエスは、十字架に架かられる前に、死に向かわれる中にあって、死を越え、それを突き抜けてさらにその先の再臨を語られたのです。死の向こう側への先行きを確信してのお言葉は、私たちを大いに力づけるものです。私たちも初代教会の弟子と同じように心から叫びましょう。「マラナ・タ」(主よ、来てください Ⅰコリント16:22)と。