ヘブル人への手紙 1:1ー4
礼拝メッセージ 2025.2.2 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,発信人と宛先不明の手紙
著者匿名
ヘブル人への手紙は、他の聖書箇所と異なってたいへん独特であり、古くからいろいろなことが言われてきました。一つには、この書はほんとうに「手紙」だと言えるのか、ということです。まず、手紙とされているのに、発信者の名前も、宛先も書いていません。それから、もう一つ未だに解決していないことは、この書が誰によって書かれたのかということです。これも新約聖書中で唯一のことです。著者として名前が挙げられたのは、パウロ、バルナバ、アポロ、アクラとプリスカ、ルカ、シラス、ローマのクレメンス等です。著者不明のまま、この書は読まれ続けています。オリゲネスが書いたように「この書の著者が誰であるのかは神のみぞ知る」ということになります。しかし、著者が誰であるのかも特定できず、もちろん宛先も不明で、手紙の体裁を持っていないにも関わらず、このヘブル人への手紙は霊感された確かな神のみことばであり、あらゆる時代の人々に常に主を見失わぬように警告し、信仰に堅く立つように激励し続けています。
宛先の人々の状況
この手紙の当時の直接の宛先の人々が誰であったのかも不明ですが、彼らがどういう状況にあったのかは内容から推測できます。主を信じる信仰を持っていた彼らは、迫害と困難な時代の中で「(みことばを)聞くことに対して鈍くなって」(5:11)おり、「救いをないがしろにして」(2:3)、「生ける神から離れる者」(3:12)が出て、「堕落し」(6:6)、「集まりをやめ」(10:25)てしまい、行くべき道を見失い「押し流され」(2:1)てしまう状況にありました。だから、著者は「勧めのことば」(13:22)を書くことにしたのです。著者は苦境にある教会、そして危機的信仰状態の人たちに対して、彼らの信仰を力づけ、主にとどまるようにと熱く語ったのです。こうした執筆背景と宛先の人々のことは、現代の私たちの困難さと重なり合うと思います。
2,人から神に届く道はない
「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られました」。ここに第一のメッセージを読み取れます。短く言えば、「神は…語られました」ということです。神が人間に向かって語られ、ご自身を啓示されなければ、私たちは神を知ることも、神に近づくこともできないということです。人間の感覚は優れたものを持っていますが、自然界を超えたところに到達することはできません。ある人が言うように、私たち人間は自然世界という「箱」(ボックス)の中に暮らし、その時間と空間の壁に囲まれて生きています。箱の外側には、超自然があることを人間はうすうす感じていますが、自分自身では確かなことを知りません。そして誰かが「超自然的なもの、外側の世界について知らなくてはならない」と言います。そのようにして、いろいろな宗教や思想が生まれてきました。聖書信仰以外のすべての宗教はすべて「人間から神への道」を求めています。人間が自然界から超自然へと脱却し、神を知り、救いを得るのです。しかしこれらの試みは、聖書の語る信仰から言えば、すべてうまくいきませんし、決して神に通じる道に達することもありません(ヨハネ14:6)。
3,神から人へ向かう啓示
「神は…語られました」という、神の方から人間に向かって発信してくださらない限り、私たちは神を知ることはできないのです。なぜなら、人間は神の被造物であるので、万物の創造主である神を人間の能力で測り知ることはできないからです。全知全能の神の高みに私たちが近づくことはできません。神が私たち弱く小さな人間の方に合わせて、人間が理解できて聞き取れるように、認識できるように神の側から降りてきてくださらなければ、不可能なことです。神さまが私たち人間にご自身のことを示してくださることを、神学では「啓示」と呼んでいます。
次に、それでは神は歴史の中でどのようにご自身を啓示されてきたかと言うと、「預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で」ということです。この「多くの部分」(ギリシア語:ポリュメロス)と「多くの方法」(ポリュトロポス)は掛け言葉を使いつつ、旧約聖書や歴史の中で神が預言者や多くの人々に示してこられた「ことば」、「幻」など、そのすべてを表しています。しかし、2節「この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」と言います。アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤ、イザヤ、エレミヤなど、旧約聖書三十九巻すべてで、神は多くの部分と多くの方法で語ってこられました。それはすべて確かな啓示であり、真理でありましたが、完全ではなかったと、ヘブル書の著者は語っています。それは真理ではあっても、部分的であり、断片的であり、朧げなものでしかありません。
4,神からの究極啓示
しかし、「この終わりの時」になって(今から二千年前)、神はご自身の御子、すなわち「イエス」によって、全く完全なかたちで、私たち人間にご自身を明らかにしてくださったのです。3節で「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」とあります。イエスさまこそ、神の栄光を照り輝かせ、その光を放射するお方であり、神のご本質そのものであると、語っています。御子イエスを見たものは、御父を見たことになるのです(ヨハネ14:7)。この「本質の完全な現れ」という文は、直訳が脚注にあるように「実体の刻印」という聞き慣れない表現です。「刻印」と訳されたギリシア語は、カラクテールで、英語のキャラクターの語源です。
ここで著者が言っていることは「だから神を知りたい人は、御子を見てください。この方に心を集中して見つめよ」ということなのです。この御子は「万物の相続者」で、「世界を造られた」方であり、「神の栄光の輝き」で、「万物を保持し」、「罪のきよめを成し遂げ」た方で、神の「右の座」に着いている方なのです。言い換えれば、「啓示」、「創造」、「救い」のイニシアチブを神は取られ、それがすべて「御子」を通してなされたということです。ゼーン・C・ホッジズ(ダラス神学校)が書いた註解では、ここをこう結んでいました。「これは神の最も偉大な御子である。御子の言うことを聞け!」と。私たちはこの時代、改めて御子イエス・キリストに心を向け、そしてこの方に集中していきたいと思います。ホッジズ氏が言うように、これは私たちに向けられた天からの声です。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」(マタイ17:5)。