「神の御前に喜ばれること」

テモテへの手紙第一 5:1ー16

礼拝メッセージ 2024.11.24 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1,どのような人に対しても、愛をもって接すること(1-2節)

 第一に、「どのような人に対しても、大切な人に対してするように愛をもって接すること」が教えられています。教会は老若男女、すべての人が招かれている共同体です。しかし、だからこそ立場や年齢、性別が異なる兄姉のことが理解できずに不満に思うこともあるでしょう。だれかが間違ったことをしていると思ったときに、正義感をもって戒めることがあるかもしれません。しかし、その度に私たちが確認したいのは、「そこには、相手に対する敬愛の心があるだろうか?」ということです。
たとえば、自分より世代の若い女性の言動が気になることがあるかもしれません。注意が必要な場面だとして、それを生意気な若い世代だと思いながら伝えるのと、実の姉妹や娘に対するように深い愛情をもってそうするのとでは、同じことを伝えるにしても随分とその伝わり方は変わってくるのではないでしょうか。反対に、年配の男性に対しても、分かり合えない老人だと思うのか。尊敬する父親に対するように敬意をもって語るのか。パウロは、「自分の大切な人だったら、どうするか?」ということを想像させながら、人を愛するということについて教えているわけです。
私たちは、どのような人に対しても、最大限の敬意を払って接していきましょう。それが難しいと感じたときには、ここで助言されているように「自分の大切な人に対してするように」と意識してみましょう。私たちの目の前にいる人は、神様がお造りになられ、御子をささげるほどに愛しておられる、大切な人だからです。


2, 本当に困っている人を助けられるように(3ー16節)

 第二に、やもめに対する態度について教えられています。ただ、今の私たちにはあまりピンと来ない部分もあるかもしれません。ここでは「やもめ」という具体的な対象が挙げられていますが、私たちはここから「教会が本当に困っている人を助けられるよう整えられるべき」だということを学びたいと思います。
 やもめとは、夫のいない、あるいは夫を亡くした女性のことです。旧約聖書の律法を見ると、夫を亡くした女性は貧しさと隣り合わせになることがほとんどだっため、だからこそ、やもめに対する神様のご配慮がうかがえる内容が見受けられます。ですから、やもめに対するパウロの厳しい言葉には少々驚かれるかもしれません(6節など)。しかし、パウロは「本当のやもめ」以外の女性を蔑ろにしているのではありません。むしろ、できる限りすべての人が神の御前に健全に歩んでいくための方法を、教会や家族に対して勧めています。
 というのも、3節で言われている「本当のやもめ」とは、夫に先立たれただけではなく、生活を支えてくれる家族がいない女性のことです。限りある財源の中で教会は本当に困っている人を助けていくことができるように、整えられる必要があります。ですから、前提として、個人が属している第一のコミュニティである家族こそが、互いに生活を助け合っていく責任があることを教えています(4節)。それを放棄することについて非常に厳しい非難の言葉も述べられています(8節)。教会内の人間関係にかかわらず、すべての人が互いに敬愛を示して仕え合っていくこと、これこそが神の御前に喜ばれることです。
 そして同時に、パウロの教えは、いわゆる「本当のやもめ」ではない、家族がいたり、まだ年齢も若かったりする女性の歩みを神の御前に健全に保つためのものでもあります。教会のやもめの該当者のリストを60歳以上と区切るのは、再婚が考えにくい年齢であるためでしょう。この名簿に名前が載る際には、「やもめのままで主に仕える」という誓いをしていたようです。そのために、再婚によって“キリストにそむく(8節)”結果になることが懸念されています。また「助けてくれる」という教会の制度を濫用するのではなく、日常生活の中で良いわざに励んでいくことが勧められています。

 私たちも、互いに敬愛を示し、良いわざに励んでいくことによって、神の御前に喜ばれる歩みをしてまいりましょう。それは、神様が恵みによって私たちを救ってくださったからです。