ダニエル書 12:1ー13
礼拝メッセージ 2025.1.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,世の終わりに人々は知識を増そうと捜し回る
終わりの時はいつ何が起こるのか
ダニエル書は、世の終わりについて語っていますが、最後の12章には、「時」(タイム)ということへの集中が見られます。「その時」(1節)、「終わりの時」(4、9節)、そして期間を示す「一時と二時と半時」(7節)、「千二百九十日」(11節)、「千三百三十五日」(12節)という表現が出てきます。「終わりの時」にはいつ、何があるのか、御使いは尋ねます。「この不思議なことは、いつになると終わるのですか」(6節)、ダニエルも質問しています。「この終わりはどうなるのでしょう」(8節)。まず、終わりの時代がどういうものであるのか、12章は二つのことを示唆しています。第一に、多くの人が知識を求めるが正しく理解ができないということです。そして第二に、悪が増加していくということです。
知識を求めて捜し回るが見出だせない
12章4節に「多くの者は知識を増そうと捜し回る」ということばがあります。この「捜し回る」と訳されたヘブライ語は、「あちこち歩き回る」という意味のことばです。ここで言われているのは、ふつうの知識ではなく、世界のこれから先を見通すような知識のことです。これまでこの書で見てきましたようにダニエルは真の神から啓示を受け、幻そのものを見、そしてそれを解き明かす知恵が与えられました。この「知識を増そうと捜し回る」は、アモス書8章11節から12節の内容を思い起こします。「見よ、その時代が来る。―神である主のことば―そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である。彼らは海から海へと、北から東へとさまよい歩く。主のことばを探し求めて行き巡る。しかし、それを見出すことはない」。
「多くの者は知識を増そうと捜し回る」のですが、それを見出だせないのです。10節にもこう記されています。「悪しき者どもは悪を行い、悪しき者どものだれも理解することがない。しかし、賢明な者たちは理解する」。現代はまさにその危機に瀕しているのではないでしょうか。終わりの日に臨み、人々は知識の追求には飽くことがありません。ところが、探しても探しても見つからないのです。あるいは、こう言っても良いかもしれません。多くの知識はあっても肝心の知識を得られず、理解することがありません。自分がいったい何者であり、そしてなぜ存在しているのか、根本的な答えを持つことができないのです。
2,世の終わりには悪しき者が悪を行う
それから12章で明らかにされていることは、1節で「苦難の時が来る」と言われ、それは10節で「悪しき者が悪を行う」世界へと、どんどん転落の道をたどっていくということです。ダニエル書が告げる世界の究極の終わりは、まさに「患難時代」であり、それは「かつてなかったほどの苦難の時」となります。それは主が来臨される前の時代状況です。しかし、それが今すぐなのか、これから先なのかはわかりません。しかし、パウロが記していたとおりの心構えが常に必要でしょう。「終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。」(Ⅱテモテ3:1〜5)。
3,終わりに向かって歩め!
モーセとダニエル
パウロは自らの殉教の日が迫っていることを自覚して、上記のことばを弟子に語り、教会に警告を発したのですが、ダニエルもおそらく同じ思いで、この最後の部分を書き留めていたのでしょう。ペルシアの世になって捕囚民だった人々は解放され、祖国復興のために帰って行った人々、そしてバビロンに残った人々に向けて、「賢明な者たち」(ダニエル11:33、35、12:3、10)として耐え「忍んで待ち」生きるように(12:12)、ということを。バビロン捕囚からの解放と帰還は、「第二の出エジプト」と呼ばれています。エジプトからカナンの地へ、そしてここではバビロンからユダヤへ、民は約束の地に入って行きます。モーセはその地に入ることが許されず、ネボ山のピスガの頂きに立たせられ、全地を見渡してから、主の命により主のもとに召されていきました(申命記34章)。そしてここでは、ダニエルはティグリス川の川岸に立ち、「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」(13節)と御声をかけられ、主のみもとに旅立ちます。13節前半はこう訳せます。「あなたは終わりに向かって行け!そしてあなたは安息するであろう」です。この「行け」(ヘブライ語で「レク」)という命令のことばは9節にもありました。この向かう先である「終わり」とは、言わば主が備えておられるゴールということでしょう。時代は移り変わっていき、これまでも、今も、そしてこれからも、確かに苦難が待ち受けているかもしれません。けれども、神の御前に「賢明な者」として耐え忍んで、前へ進み続けるのです。「終わりまで歩み」続けるのです。
死後の安息と復活
それでは、歩んだその先には何があるのでしょう。一つは、主のみもとにある「安息」です。13節の訳では「休み」となっています。ダニエル自身も、身も心も疲れ果てて、老境を迎えていたのかもしれません。しかし、主は彼のために「全き憩い」を与えられたのです。そしてもう一つは、復活です。13節後半に、「あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」と約束されています。ダニエルは、生きている間におそらくエルサレムには戻れませんでした。モーセも、約束の地に入れませんでした。けれども、神は彼らのために、相続地を用意されていたのです。彼らは、終わりの日に復活し、相続するのです。
2節から3節「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、…賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる」とは、旧約聖書における明確な「復活」についての預言記述です。私たち主に信頼する者たちに対して、神は死後の安息だけでなく、復活する時を備えておられます。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:52)とパウロが記しているとおりです。