「大切な安息」

創世記 2:1-3

礼拝メッセージ 2015.3.29 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


7日間の創造

 神は7日間をかけてこの世界を創造したと創世記から読み取ることができます。最後の日(7日め)に神はすべきことを完成したとあるのですが、同時にその7日めに神は仕事を離れて休んでいます。完成した日と休んだ日が同じというのは、どうも居住まいが悪い気がします。新改訳聖書は「宣言した」という言葉を使いますが、原典ではそのような言葉は使われていません。「完成し」同時に「休んだ」のです。創造が何かを造り出すという業ではなく、休むことも神の創造と考えたらいかがでしょうか?神は命を生み出し、命を維持するためにこの世界を創造されました。もし命のために休みが必要であるならば、休みも創造の業であると言えます。


聖なる日

 聖とは「分ける」ことです。週の最後が聖なのは、この日が特別な日であることを意味しています。他の6日間は働き、この日は休むと言うことで、他の日とは違うのです。それは神によって造られたこの世界の秩序として描かれています。


安息日の勘違い

 安息日の記述で思い出すのは,新約聖書(福音書)におけるイエスの奇蹟物語です。イエスは安息日においても奇跡を行い,人々を救いました。ユダヤ教指導者たちはイエスが奇跡を行なったこと自体を問題にはしませんでしたが,奇跡を安息日に行ったことを問題にしています。奇蹟は仕事と見なされたようです。ユダヤ教指導者は安息日について、実際に休んだのかどうかを問題としました。結果,安息日に休めない人々を「罪人(律法を守らない人々)」と呼んで差別し,社会から排除しました。ユダヤ教指導者たちは,安息日の背後にある神の意図を完全に忘れ,形式的な理解によって安息日規定を社会秩序の規範としてしまったのです


安息の意味

 安息日の規定は旧約のあちらこちらに登場します。申命記では,イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放された記念としています。つまり,奴隷が肉体・精神・信仰において自由を得ることの意味です。出エジプト記では創世記と同じように,創造における神の休息と安息日規定が結び付けられています。創造は命の尊厳を守ることでしたが,そのような意味合いとして安息日は人間の命の尊厳を守る記念日のはずです。これらの規定は奴隷を解放すること,人々が独立して経済生活をすること,あるいは経済的な相互扶助すること,そのような規定内容になっています。人が人として暮らしていける,それが安息の内容です。そのような律法規定の理由・神の意思を忘れてしまい,形式的に休むことは聖書の主張ではありません。休むことが出来ても,命を損ない,人を排除するならば,安息日規定を破っていることになります。
 十戒に登場する安息日規定は,自分(成人男性)だけが休むのではなく,家族や奴隷や家畜と言った労働力となる人々・動物を休ませるように命じています。働いている他の人々を休ませることも重要なポイントです。自らの労働からの解放だけでは十分ではないのです。福音書に描かれるユダヤ教指導者はこの視点をも持ち合わせていません。もしこのような横に広がる視点を持っていたならば,経済的な理由で安息日を守れない,つまり休みの日にも休めない人々に対して何らかの援助をする(あるいはそのような社会的な仕組みを作る)ことで,ともに休める喜びを分かち合えたはずです。自らの人間回復、そして他者の人間回復を尊重する、それが安息です。
 現代人にとって安息と何でしょうか? 休めるから神の祝福であり,休まない(休めない)ことは神の祝福からの除外と考えるのでしょうか? 休めるから教会で礼拝するのでしょうか? これでは結局は,イエスが敵対したユダヤ教指導者の物の見方と大して変わらないことになります。安息において人々が命を取り戻す,自分を見詰め直す,休めない人々の事を考えて配慮する,あるいは必要時には援助を考える、旧約が示している安息の内容や基準を考慮していくと,このような事を優先させていかねばならなくなります。安息の意味するところは,人(自分も他の人々も)が肉体・経済・精神・信仰といった事柄の中で,必要が満たされていくことであり,それを生活の中で互いに満たしていこうとすることです。