「一度きりの人生をどう生きるか」

ローマ人への手紙 12:1ー2

礼拝メッセージ 2018.2.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,一度きりの人生をどう生きるか―「そういうわけですから」

生きることの前提

 「そういうわけですから」と1節は始まっています。この「そういうわけですから」というのが、何を指し示すのかは、本当は一番重要であると思います。パウロは、明らかにここでどう生きるべきかを示しているからです。1〜11章までを教理編とするなら、この12章からは実践編と呼べる内容になっています。
 ローマ人への手紙の文脈から、「そういうわけですから」とは広く取れば、1章から11章までの全部を受けての言葉と見ることもできます。神学者チャールズ・ホッジは「義認、恵み、選び、そして究極の救いといった、前半に教えられている教理のすべてが、ここで述べられている実践的責任の土台となっている」と述べています。ですから、12章からの内容をよく知りたければ、それは、11章までを読み直す必要があります。ここまで論じられて来たすべてのことをもって、パウロは呼びかけます。「そういうわけですから、…あなたがたのからだを…ささげなさい」と。

神のあわれみを根拠として

 「そういうわけですから」の詳細や全体を振り返ることは難しいので、直接的につながる11章の後半部分を確認しましょう。9〜11章は、イスラエルの救いをテーマとして神のご計画が書かれていました。結論は、「こうして、イスラエルはみな救われる」(11:26)であり、「神は、すべての人をあわれもうとして」(32)でした。
 神のご計画の中心は、非常に短くして言えば「神のあわれみ」でした。邦訳で11章には、30、31、32節に「あわれみを受けている」「あわれみによって」「あわれもうとして」と「あわれみ」の語が繰り返されています。原語では同じ単語ではありませんが、12章1節に同様な意味で「神のあわれみのゆえに」と記されています。意味上の違いがあるかないかは議論がありますが、この「あわれみ」は複数形です。英語ではmercy ではなく、merciesと複数になっています。文語訳聖書は「もろもろの慈悲によりて」と訳しています。ギリシア語辞書(織田昭著)は、「福音に現された神の憐れみを証拠として」と言葉を補っています。この世界の何かを土台として、それを理由に、私はこのように生きると言う人もおられるでしょう。聖書は、自分自身でも、この世界の何かでもなく、この一度きりの人生を生き抜いていく根拠であり、証拠とするものを、「神のあわれみ」に置くという道があることを私たちに示しています。それが、パウロがここで呼びかけ、勧めている、生きる道です。


2,死ぬことによって、生きる―「あなたがたのからだを…ささげなさい」

心の中でささげる

 では、パウロが勧めている生き方は、何かと言えば、「あなたがたのからだを…ささげなさい」というものです。「からだ」というのは、あなたを丸ごと、あなたのすべてという意味です。パウロは、神に成り代わって、あなたに強く呼びかけているのです。あなたのすべてを神にささげなさい、と。これは本当に大胆に思える勧めです。
 旧約聖書の中で、族長アブラハムがそのひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげる話が創世記22章にあります。結果的には、アブラハムがイサクを屠ろうとした瞬間、御使いがそれを止めて、代わりに犠牲の雄羊を備えがされて、それをささげることになります。このストーリーの中の謎の一つは、イサクを屠ろうした祭壇での出来事の後、イサクの姿が見えなくなってしまうことです。22章5節「それでアブラハムは若い者たちに、『あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る』と言った。」となっていますが、話の最後の19節には「こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。」となって、なぜかイサクの存在が述べられていないのです。私の理解では、実際にはイサクは屠られなかったのですが、アブラハムにとっては、刃物を振り下ろしていなくても、彼の心の中では、その信仰においては、イサクは確かに、いけにえとしてささげてしまったという信仰の事実を表しているのではないかと思います。親にとっての子どもは、自分と同じ、いやそれ以上の存在ですから、アブラハムの「からだをささげる」献身は、確かに神に受納されたことを教えていると理解できます。

死ぬことによって、生きる

 犠牲、供え物というのは、ささげられるとき、屠られたり、焼かれたりして死んでしまうことになります。今の時代、犠牲となることは、不幸、悲劇として否定的に受け取られがちです。しかし、この真理は聖書の中によく示されている聖なる逆説と言えましょう。語られている真理は、人は死ぬことによって、真に生きることになる、ということです。イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マルコ8:34〜36)。


3,礼拝して、生きる―「霊的な礼拝」

 1節では、ささげる人と、ささげものとは、同一とされていることがわかります。供え物は「神に受け入れられる」「聖い」「生きた」ものでなくてはなりません。私たちは、神の御前において、祭司として立てられ、同時に、供え物それ自身でもあります。祭司でありつつ、いけにえでもあるという両面は、イエス・キリストの中に見られる御姿です。イエスは神の御前でとりなしてくださる大祭司ですが、同時にご自身が私たちの罪ために屠られる犠牲の小羊となってくださいました。私たちもその両面を持った礼拝者なのです。ここから導き出される一つの結論が、「霊的な礼拝」です。私たちのからだを神にささげることが礼拝であり、奉仕の本質であるということです。公同の教会でささげる礼拝は、非常に重要で、その礼拝の中心は、私たちをささげることにあります。福音に明らかにされた神のあわれみを知って、自分をささげて生きるという日々の歩みそのものが、まさに「霊的」であり、また「理にかなった」「礼拝」であり、「奉仕」でもあるのです。