ヨハネの福音書 7:1-13
礼拝メッセージ 2025.5.18 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
イエスの兄弟たち
ヨハネ福音書7章では、イエスをめぐる人々の戸惑いや様々な評価・態度が記されています。その中に、イエスの兄弟たちについての記述も見られるのです。兄弟たちはイエスの名声をユダヤ地方で挙げようと画策します。これは単なる名誉欲ではなく、イエスを利用する政治的な意図があったとも考えられます。しかし、兄弟たちはイエスを信頼せず、まったく無理解であることを聖書は語るのです。イエス自身が兄弟たちの思いを否定して、「わたしの時が来ていない」と兄弟たちを諭します。それは、イエスが十字架でされる時がまだ来てないことを暗示しています。最も近くで生活した兄弟たちは、イエスに躓いたといえるでしょう。
【コラム】イエスの兄弟
イエスには弟や妹がいたことを福音書は証言しています。使徒の働きでは、主の兄弟ヤコブが登場し、エルサレム教会の指導者になったことが述べられています。
イエスのユダヤ訪問
しかし、理由は解りませんが、イエスはユダヤに行きますが、隠れていました。それは人々から利用されない、というイエスの決意表明であったと思われます。ある者はイエスを積極的に評価し、ある者は否定的にイエスを見ていた様子が描かれています。しかし、7章の冒頭にあるように、ユダヤ人(正確にはその指導者たち)はイエスを殺そうと策謀していました。このような状況の中で、イエスについて話をすることさえもはばかれる様子がうかがえます。
私たちへの問いかけ
このようなイエスに対する様々な評価が存在するのは、イエスが生きた時代だけではありません。ヨハネ福音書が記された時代(それはイエスの生涯から70年近くも経過した時代ですが)においても、人々はイエスに対する評価で分裂していました。また、現代においてもそうです。キリスト者とそうでない人々の間で、またキリスト者同士の間でも、イエスに関する評価は様々です。「イエスとは誰なのか?」イエスに従って生きる決意をした人々はもちろんのこと、キリスト教や聖書に興味をいだく人々の質問です。まず、この質問(あるいは疑問)自体に価値があることを確認しておきましょう。否定的であろうと、関心のある対象に対して質や疑問がわきます。自分とは関係のない事柄や人物は、最初から無視するだけです。
イエスは自らを神から遣わされ、神の意思を行う者として自己紹介します。人々はその大胆な宣言に驚嘆し、惹きつけられ、その宣言を確認したい(あるいは否定したい)と悩みます。イエスの自己証言を証明するために、ヨハネ福音書では奇跡物語が語られています。奇跡を通して(奇跡を起こすことだけでない点に注意!)人々に救済が実現してきたことが、イエスは誰なのかを示しているのです。問題はこの自己証言と奇跡をどのように解釈するか、です。それは、イエスに実際に出会った人々だけに向けられているだけでなく、聖書を読む私たち現代に生きる者にも向けられ、評価を迫られます。私たちも聖書以上の証拠が欲しいかも知れません(実際に奇跡を経験したいという思いなど)。しかし、イエスは自らの主張のために必要以上のことをしなかったように、私たちにも聖書以上のことは語りません。聖書はその語る範囲で、私たちのイエスに対する態度を決めるように求めます。それで十分だからです。「イエスとは誰か?」先にキリスト者になった者も含めて、この問いに対して「神から遣わされ、私たちが従うべき方である」という答えを持ち合わせたいと思います。