ルカの福音書 1:39ー45
礼拝メッセージ 2026.3.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,エリサベツに会いに行くマリア(39〜40節)
「(マリアは)急いで行った」(39節)と記されています。マリアといえば、受胎告知や聖母子の絵画などで、静かに笑みを浮かべて佇んでいる落ち着いた母のイメージがあるかもしれませんが、この聖書箇所のマリアは、ユダヤの丘陵地帯を上ったり下りたりして、汗をかきながら急いで走っている元気な十代の女の子です。マリアのいたナザレからエリサベツの住んでいたエルサレムの南に位置する町まで、おそらく80キロから100キロほど離れており、三、四日を要する旅でした。なぜ、マリアがエリサベツに会うためにそんなに急いでいたかと言えば、それは御使いガブリエルから聞いたことばを本当かどうかを確かめるためでした。みことばを疑っていたわけではなく、確かにそのとおりであることを確認したかったのでしょう。神の導きに対する即座の応答として、マリアは急いでいました。御使いは言いました。「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。…見なさい。あなたの親類エリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六か月です。」(31−32,36節)。
「急いで行く」行為が記されているのは、マリアだけではありません。この後、御使いたちの知らせを受けて、羊飼いたちも「急いで行って、…飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当て」ることになりました(2:16)。取税人のかしらであったザアカイもイエスからお声をかけられて、「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」ました(19:6)。十字架にかかられ葬られたイエスのお墓が空っぽであると女性たちから聞いて、ペテロは「立ち上がり、走って墓に行った」のでした(24:12)。
信仰はじっくり深めながら、ゆっくりと進めていく面もありますが、このように何かに駆り立てられるようにして、急いで進んで行く面の両方があります。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(ヘブル4:7)。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)と主は言われます。御霊に促されたなら、ぼやぼやせず即座に動くのです。急いで従いましょう。すぐに信じましょう。
2,エリサベツに神の御業を見たマリア(41節)
親類のエリサベツに会ったマリアはそこで「あいさつ」をしましたが、「あいさつ」(40、41、44節)ということばが繰り返し出てくるのは、それが重要であったことを強調しています。ここに記されている「あいさつ」とは、「おはようございます」や「こんにちは」というような一言の軽いあいさつではありません。この時代のユダヤの慣習としてのあいさつは、長い時間を要する社交行事的なものであったと言われています。
マリアとエリサベツは、互いに自分たちの驚くべき体験を語り合ったと思います。マリアはエリサベツだけが自分の身の上に起こった処女懐胎の話を唯一信じてくれる人物であると思っていたことでしょう。他の人々は、彼女の話を聞いても、彼女が犯した性的不道徳をごまかすための荒唐無稽な話と思って、相手にしなかったはずです。彼女をよく知っている婚約中のヨセフさえ、すぐには理解できず、離縁しようとしていたのです(マタイ1:19)。しかしヨセフはその後、夢で主の使いのことばを聞き、その真実を受け入れていきます。
そして、神がこの二人の無名の女性を、二人の息子の奇跡的な母として選ばれたことを彼女たちは悟り、互いに驚嘆と感動で心をいっぱいにしたのです。エリサベツの胎内では、マリアのあいさつの声を聞いて、胎児が躍ったと記されています(41節)。一般的に胎児の聴覚は妊娠20週ぐらいから外界の音も感じ取れるようになるそうで、胎動も早くて4か月頃から母親が感じ取れるようになるそうなので、妊娠六か月のエリサベツはそれが可能でした。
しかし、その子は胎内で躍ったというのは、やはり不思議なことです。妊娠した女性が胎児の動きを感じ取る話は、創世記でリベカが双子のヤコブとエサウを宿したときのことを思い出させます。そのときは「子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになった」(創世記25:22)のでした。それはリベカを不安に陥れ、その後の二人の子どもの歩みを暗示するものでした。しかし、エリサベツの場合はそれとは全く異なり、マリアの声で「胎内で子どもが喜び踊りました」(44節)。
これから約30年後に胎児だったヨハネとイエスは出会うことになりますが、胎内でバプテスマのヨハネが喜び踊ったのは、それを神から示されたからなのかもしれません。母のお腹の中にありながら、それを感じ取ることができ、理解することができるとは、奇跡以外の何物でもなく、それは未来を予め示す「しるし」でした。マリアはエリサベツの胎内で喜び踊る胎児のことを知って、自らに与えられたみことばの約束の確かさをここに感じたことでしょう。
3,エリサベツの証言を聞くマリア(42〜45節)
エリサベツはここで預言者のように、「聖霊に満たされ」(41節)、大声で語り出しました。「あなたは女の中で最も祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。」(42節)。エリサベツは賛美したのです。そして、マリアに祝福を告げました。そして「私の主の母が私のところに来られるとは、どうしたことでしょう。」(43節)と語ったように、親類であるとはいえ、エリサベツは普通なら妊娠できる歳ではなかった高齢の女性です。一方、マリアは、おそらく十代前半の娘でした。およそ自分の子どもぐらいの年齢のマリアを「主の母」と呼び、大いに感謝しつつ、恐縮しています。
イエスとヨハネとの立場や関係性について、ルカは読者が正しく捉えられるように、この出来事においても明確にしています。ヨハネは、イエスの先駆け的働きをするように、神から使命を与えられている人でした。ヨハネの働きは偉大でしたが、彼はあくまで預言者の一人で、それ以上の者ではなく、主を指し示す「荒野で叫ぶ者の声」(3:4)に過ぎなかったのです。そういう意味では、彼はこれから多く生まれ出ることになっていく、イエスに仕える人間すべてを代表しての登場だったのです。したがって、ここに記されているエリサベツに見られる謙虚さも、ヨハネが荒野でイエスと出会ったときの姿勢と全く同じです。
マリアは救い主をその身に宿す大いなる光栄と恵みをエリサベツの証言によっても、このようにして確認したのです。それらの確証を受け取ったマリアは、その後、世界中で賛美される祈りのことば(マグニフィカート)を歌い上げました(46−55節)。私たちもマリアに続いて、「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人」(45節)となり、祝福にあずかり、賛美しましょう。
