士師記 1:27ー2:5
礼拝メッセージ 2026.3.1 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1,追い出さなかった⺠(1:27-36)
ここでは、各部族がカナン⼈を「追い払わなかった」ことが繰り返し記されています。「マナセ(族)は、…占領しなかった(1:27)」「エフライム(族)は、追い払わなかった(1:29)」「ゼブルンは追い払わなかった(1:30)」「アシェルは追い払わなかった(1:31)」「ナフタリは追い払わずに(1:33)」と、同じ表現が何度も続きます。イスラエルの⺠は、完全に敗北したわけではありません。むしろ強くなると、カナン⼈を奴隷労働に使いました(1:28)。つまり、「役に⽴つから残した」のです。しかし、神様は偶像礼拝の影響を避けるために、カナン⼈を完全に追い出すよう命じておられました(申命記 7 章)。彼らは「⼒不⾜」だったのではありません。神様の命令に対して「妥協」したのです。経済的利益や共存の便利さ、戦いの⾯倒さなどを優先しました。こうして罪を完全に断たずに“共存”させてしまいました。
神様は偶像の影響をあらかじめ警告しておられました。では私たちはどうでしょうか。「少しくらい」と妥協して、本来残すべきでないものを⼼の中に残してはいないでしょうか。「⾃分はこういう性格だから」と⾔い訳をしていないでしょうか。完全に追い払わずに、「少しくらい」「そうじゃないと現実はやっていけない」と当化してはいないでしょうか。そして、少し残した部分は「コントロールできる」と思い込んでしまっていることもあるかもしれません。神様を完全に否定しているわけではない。けれども、中⼼にはしていない。それが⼠師記の始まりです。⼠師記 1 章の問題は、神様の命令を「完全には」信頼しなかったことでした。「神の⾔葉は正しいけれど、現実的にはこうしたほうがいい」。この“現実的判断”こそが妥協なのです。
2, 主の使いの叱責(2:1-5)
場⾯が変わり、「主の使い」がボキムで語ります。神様は⾔われます。
「わたしはあなたがたをエジプトから上らせ…わたしはあなたがたと結んだわたしの契約を決して破らない」(2:1)。まず神様は、ご⾃分の誠実さをはっきりと宣⾔されます。神は契約を破らないお⽅です。
しかし続けて、こう語られます。「あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか」(2:2)。そこには、責め⽴てるというよりも、深い悲しみを含んだ問いかけが響いています。そしてその結果として、完全に追い払わなかったが、後に霊的な罠となることが告げられます。「彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる」(2:3)。⼈々はこの⾔葉を聞き、「声をあげて泣いた」(2:4)。それで、その場所は「ボキム(泣く者たち)」と呼ばれるようになりました。
しかし重要なのは、ここには「悔い改めた」という⾔葉がなく、それに該当する具体的な⾏動の変化も記されていないことです。⺠は声をあげて泣き、さらに「主にいけにえをささげた」(2:5)。⼀⾒すると、深い悔い改めのように⾒えます。けれども、悔い改めとは本来、⽅向転換を意味します。ところがここでは、「カナン⼈を追い払った」「偶像を壊した」といった記述はありません。
それどころか、わずか数節後にはこう記されています。「イスラエルの⼦らは主の⽬に悪であることを⾏い、もろもろのバアル(偶像)に仕えた」(2:11)。もし 2:4‒5 が深い悔い改めであったなら、この急激な堕落は不⾃然です。⼠師記は意図的に「感情的反応」と「根本的転換」との違いを描いているように思われます。おそらく「⼼が痛んだ」こと⾃体は本当だったのでしょう。しかし、「⽣活を変えた」とは書かれていないのです。⼩さな妥協が、やがて次世代の偶像礼拝へとつながっていきます(2 章後半)。
私たちはどうでしょうか。聖書のメッセージを聞いて涙する。罪を⽰されて⼼が痛む。しかし、⽣活そのものは変わらない。そのような⾃分の姿はないでしょうか。⼠師記は、「涙」と「悔い改め」は同じではないことを教えています。
戦いや征服の話とは少し違う、静かだけれどとても大切な出来事が描かれています。カレブの娘アクサは、結婚の祝いとして土地を受け取りました。けれど、その土地はネゲブであり、それは乾いた地でした。土地が与えられただけでは、生きていくことができません。だから彼女は「湧き水(泉)もください」と願ったのです。これは、欲張りやわがままではありません。乾いた土地で生きるために不可欠なものを、正しく求めた信仰の行動でした。
3.契約を決して破らない神様の誠実さ
しかし、今回の箇所で最も重要なのは、「神は契約を決して破らない」という事実です。⼈が不誠実であっても、神様は誠実であり続けられます。神様がイスラエルを救い出し、導き、祝福を誓われました。そして、その契約を決して破らないと宣⾔しておられます。イスラエルは「神様の教えを守り、従います」と契約しましたが、その誓いに対して不誠実でした。しかし神様は、ご⾃分の契約を取り消すとは⾔われませんでした。
⼈は裏切られると関係を断とうとします。しかし神様は、「わたしは契約を破らない」と⾔われました。これは、「あなたがどうであっても、わたしはわたしであり続ける」という宣⾔です。2:3 の⾔葉のとおり、⼠師記では確かに裁きが起こります。けれどもそれは「破棄」ではなく、契約の中での訓練です。神様はイスラエルを完全に捨てることはなさいません。
⼠師記は「⼈間の失敗の書」であると同時に、「神の忍耐の書」でもあります。私たちは、罪を「利⽤価値があるから」と残してはいないでしょうか。神様よりも便利さを優先してはいないでしょうか。泣くだけで終わる悔い改めになってはいないでしょうか。神様は、「なぜ、このようなことをしたのか」と問いかけておられます。それは責めるためというよりも、回復へと招く問いです。回復を願ってくださっている神様のもとで、「今からではもう遅い」と⾔うのではなく、私たちは⽣き⽅を変える決断をしたいと思います。
