士師記 1:8ー15
礼拝メッセージ 2026.1.18 日曜礼拝 牧師:太田真実子
士師記1章
神様はアブラハムの時代に、イスラエルにカナンの地を与えると約束されました。しかし、その約束は自動的にすべてが実現したわけではありません。イスラエルは一部の地を征服しましたが、多くの場所は未制圧のままでした。士師記1章は、「勝利の記録」というよりも、「未完の征服の現実」を淡々と描いている章です。
士師記1章に登場する部族たちは、神の約束を信じて戦う場面もありますが、同時に鉄の戦車を恐れ(1:19)、労働力として残した方が得だと判断する場面もあります。神様の命令どおりに完全に追い出すことをやめ、現実との折り合いをつけてしまうのです。そこには、理想と現実の間で揺れる、私たちと同じ人間の姿が映し出されています。
士師記の最後には、こう記されています。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいと見えることを行っていた」(21:25)。士師記1章は、まだ神の名が語られ、信仰が保たれているように見えながらも、判断の基準が少しずつ「神」から「自分」へとずれていく、その始まりを描いています。
1,理想と現実の間で
士師記1章8–15節は、その中でもユダ部族の「比較的うまくいっている場面」をまとめた箇所です。ただし、そこにも完全な勝利ではない影がすでに含まれています。希望と不安が同時に存在する場面です。
エルサレム(1:8)
一見すると完全勝利のようですが、後の1章21節では、エブス人がエルサレムに住み続けたと記されています。つまり、一時的には制圧したものの、定住し、完全に守りきることはできませんでした。「勝ったが、続かなかった」。これは士師記全体に繰り返される、部分的な従順の最初の例です。
ヘブロン(1:9–10)
ヘブロンはアブラハムゆかりの地であり、すでにヨシュア記で与えられていた土地です。ここでユダは、シャシャイ、アヒマン、タルマイという強敵を打ち破ります。神の約束が確かに生きていることが、あらためて示される勝利でした。
2, 湧き水を求めた信仰
オテニエルの登場(1:11–13)
そして、デビル(キルヤテ・セフェル)攻略し、カレブは言います。「キルヤテ・セフェルを打つ者に、娘アクサを妻として与える」(1:12)。これに応えたのがオテニエル(カレブの弟ケナズの子)でした。このオテニエルは、続く士師記3章において、最初の士師として立てられる人物です。ここは、霊的リーダー誕生の伏線とも言える場面です。
アクサの願い(1:14–15)
アクサは、結婚後すぐに父カレブに願います。「どうか私にお祝いを下さい。ネゲブの地を私に下さるのですから、湧き水を下さい(1:15)」。それでカレブは、上の泉と下の泉を与えました。
戦いや征服の話とは少し違う、静かだけれどとても大切な出来事が描かれています。カレブの娘アクサは、結婚の祝いとして土地を受け取りました。けれど、その土地はネゲブであり、それは乾いた地でした。土地が与えられただけでは、生きていくことができません。だから彼女は「湧き水(泉)もください」と願ったのです。これは、欲張りやわがままではありません。乾いた土地で生きるために不可欠なものを、正しく求めた信仰の行動でした。
この場面は、私たちの信仰にも重なります。神様は、いのち、救い、教会、仲間、みことば、使命と、私たちに多くのものを与えてくださいました。それでも、日々の生活の中で渇きを覚えることがあります。信仰はあるのに力が湧かない、日々の生活が乾いているように感じる。前に進みたいのに、潤いがない。そんなとき、アクサの言葉が響きます。「湧き水もください」。
アクサは遠慮しませんでした。父が与えることのできる方だと信じていたからです。私たちも時に、「ここまでで十分だ」と自分で線を引いてしまいます。しかし神様は、私たちが生きていくために必要な恵みを、惜しまず与えてくださるお方です。
カレブが与えた「上の泉と下の泉」は、一時しのぎではなく、これからも生き続けるための備えでした。神様も同じです。士師記はこの後、混乱と失敗が続いていきますが、その中でアクサの姿は小さく、しかし確かな存在感を持っています。与えられた恵みに感謝し、なお必要なものを神に求める信仰。それは、混乱の時代を生きる私たちにとっても、大切な姿勢です。
神様は、土地を与えて終わるお方ではありません。乾いた地に泉を与え、そこで生きていけるようにしてくださるお方です。だから私たちも祈りたいと思います。「主よ、あなたが与えてくださったこの歩みを、生きていくために、湧き水もください。」神様は、その祈りを喜んで聞いてくださいます。
