ヘブル人への手紙 13:1ー
礼拝メッセージ 2026.1.4 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,わたしは決して見放さず、見捨てない
私はこの「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」ということばが、聖書のことばの中で最も大切なメッセージであると思っています。5節後半です。「主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。」これは申命記31章6節、8節、そしてヨシュア記1章5節です。
これらはモーセの後継者ヨシュアに主が約束されたことばです。申命記の一部を引用します。「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記31:6)。約束の地を目前として、ヨルダン川を渡る前に神が語られたことばです。
これこそすべての人が、特に信仰者たちが常に忘れずに心に留めるべきみことばです。極端なことを言えば、このことばを信じ続けられるかどうかが、その人が信仰の道に留まり続けられるかどうかを決することになると言って良いでしょう。私はこれまで幾度もこのことばに助けられ、キリスト者であり続けることができました。長い人生、人から捨てられたり、裏切られることがあるかもしれないし、社会から見放されたように感じることが起こるかもしれません。でも、神だけは絶対にあなたを見放さないし、見捨ててしまうこともないと断言されています。
イザヤ書がこう語っています。「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。 たとえ女たちが忘れても、 このわたしは、あなたを忘れない。」(イザヤ49:15)。母親が自分のお腹を痛めて生んだ子どものことを忘れてしまうはずはない。しかし、不幸にもそういうことがたとえあり得ても、神である「このわたしは、あなたを忘れない」と仰っています。たとえ私たちが神から離れたり、忘れたりすることがあっても、神はずっと覚えていてくださるし、私たちを見捨てたりしないのです。6節はその「見放さず、見捨てない」神に対する応答のことばです。詩篇118篇6節からのようです。「主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」
2,主ご自身が言われたから、こう生きる
この5節後半から6節の文章と、それまでの1節から5節前半部分のつながりが以前はなかなか見えませんでした。兄弟愛を持て。旅人をもてなせ。牢にいる人を思いやれ。結婚が尊ばれるものとせよ。金銭を愛するな。そう記して来て、「わたしは決してあなたを見放さず…」となるわけです。一見、別々の内容が記されているかのように見えます。
しかし、ここには確かなつながりがあります。そしてそれこそが、この箇所全体を理解する鍵です。5節後半に注目してください。「主ご自身が…言われたからです。」となっています。直訳すると「なぜなら、彼自身が…言われたからです」。この「言われた」は詳細に説明すると、現在完了形で、ある動作が過去において完了し、その結果が現在に続いていることを表します。主ご自身が言われたことの結果が現在にまで続いていることが、今の私たちの生き方に影響しているのです。主ご自身が決して見放さず、見捨てないから、私たちは兄弟愛を持つべきなのです。旅人をもてなすべきです。牢につながれ、虐げられている人々を思いやるべきです。また、私たちの結婚生活、性生活を汚してはならないのです。持っている物で満足すべきなのは、主がともにおられる、主が私たちの心を真に満たす方だからです。
そして「私は恐れない」と確信をもって告白していますが、もし主が見放さず、見捨てないという約束を持っていなければ、私たちはいろいろなことに恐れを抱き、不安になり、自分で自分を守り、喜ばせることに必死になってしまうことでしょう。他の人たちを大切にしたり、愛していく心の余裕が持てなくなるのです。自分のことだけで精一杯になってしまいます。自分のことは主が守ってくれると信頼ができているからこそ、他の人たちのことへ目を配る心が生まれるのです。
結婚生活で夫婦が互いを信頼し、大切にしていけるのは、そこに主がおられることを確信できるているからです。誘惑に負けて、情欲に溺れてしまうのは、主が自分のことを愛し、赦し、大切にしてくださっていることを忘れたり、信じていないから、パートナーを大切にできないのです。神への信頼がなければ、人はさまざまな欲望に振り回されてしまうことになります。
3,私は人間を恐れない
6節後半を見ると、「私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。」と書いています。この当時の読者たちは、こうした漠然とした不安や恐れだけではなく、信仰を持っているがゆえの圧迫や迫害に直面していました。人を恐れると罠にかかると聖書は言いますが、実際、これはたいへんなプレッシャーであったに違いありません。
ヘブル書の宛先であった教会の人々は、迫害や弾圧に直面していたのでしょう。そのことを踏まえると、兄弟愛を抱くことも、旅人をもてなすことも、牢につながれている人たちのことも、すべて信仰者として当然果たすべきことだったのでしょう。けれども、旅をしている他のキリスト者たちを家に泊めてもてなすことで、自分たちの信仰も周囲に明らかとなり、迫害を受けるリスクがあったのかもしれません。牢にいる人を支えることで、信仰ゆえに投獄されている人たちの仲間であることが知れ渡り、自分も捕縛されてしまう危険があったのでしょう。迫害者たちである人間を、そしてその迫害してくる集団の攻撃や暴力など、普通に考えて、とても恐ろしく感じることだったと思います。
あるいは、結婚生活における不貞について、あるいは金銭欲の問題についてはどうでしょうか。ある説教者が記していましたが、聖書は基本的に「反文化」(カウンターカルチャー)的な生き方を私たちに求めているということです。この時代がセックスに寛容な見方をするから、私たちもそれで良いと聖書は言っていないのです。「結婚がすべての人に尊ばれるべきものとせよ」、「寝床を汚すな」とはっきりと断言しています。実は、聖書が書かれた時代から現代まで、性的堕落や不道徳はつねに存在していました。今も昔もそれは変わることがないのです。旧約の時代も、新約の時代も、中世も、近代も、現代も、一度たりとも、その純潔が全体として尊ばれ、守られたことはどの国でもありませんでした。そういう意味では、この命令は時代や文化を超越しています。「ノー」は「ノー」なのです。そして、その根本理由、あるいは前提は、私たちに対する変わりなき神の愛にほかなりません。「わたしは決して見放さず、見捨てない」と語っておられる主のことばに対して、「主は私の助け手。私は恐れない」と応答できる強い信頼がそこにあります。その生き方は神と人に対する「愛によって働く信仰」(ガラテヤ5:6)です。
