「シナイの山からシオンの山へ」

ヘブル人への手紙 12:18ー24

礼拝メッセージ 2025.11.23 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,シオンの山に近づいている

 「シナイの山からシオンの山へ」というタイトルとしましたが、どちらも「シ」の字から始まって、何か言葉遊びのようですが、これは私たちキリストを信じる者、あるいはキリストを求めて歩む一人ひとりにとって、それがどんなに素晴らしい希望であるのかを言い表しています。
 ヘブル書の著者が誰であるのかは諸説あり、明確にわからないのですが、もしこれがパウロの手紙であれば、もう少しストレートに「喜びなさい」と何度もピリピ人への手紙で書いたように表現した内容だと思います。今は古い契約の時代ではなく、預言されていたメシアであるイエスが来られ、天にある本物の聖所に入られ、約束は成就したのです。だから、喜んでください、ということです。
 これまでお話しして来ましたように、この手紙の宛先のキリスト者たちは、元気を失っていました。迫害やいろいろな苦難があって、霊的に疲れていて、キリスト者として生きていくことをやめてしまうような、つまり棄教、背教するような状況にありました。そして特にユダヤ教的な背景を持っている人たちは、旧約聖書の祭儀に戻っていくような状態でした。しかし、著者は言います。「あなたがたが近づいているのはシナイ山ではなく、シオンの山です」と。「今は紀元前であるB.C.「ビフォー・クライスト」ではないですよ、A.D.「アンノ・ドミニ」である主の年、主が来てくださった新しい契約が始まっています」ということです。


2,「近づいている」のか、「到着した」のか?

 この聖書箇所の中心的なことばは、「近づいている」です。18節から19節で「あなたがたが近づいているのは、…ではありません」、そして22節から24節で「あなたがたが近づいているのは、…です」と私たちが近づいているものが何であるのかを対比的に教えています。この「近づいている」は、比較的よく知られたギリシア語のことばです。この手紙の中でも七回登場しています(4:16、7:25、10:1、22など)。
 それで、この「近づいている」ということばを調べて見ると、「新共同訳聖書」では「近づいた」と過去形で訳しています。そして「聖書協会共同訳聖書」では「到達した」と訳しています。新改訳の「近づいている」とこの「到達した」ではかなり印象が違います。「近づいている」だと、近づいてきていて、まだ到着していないという感じですし、「到着した」だと、もう着いてしまっているということです。
 ギリシア語本文では、18節も22節も現在完了形が使われています。ギリシア語の現在完了形は、簡単に言えば、過去形です。しかし過去と言っても次のようなニュアンスがあります。それは文法書によると「ある動作が過去において完了し、その結果が現在に続いている状態」です。とすると、「到達した」というほうが良いような気がします。ところが、このギリシア語は「近づく」あるいは「近寄る」という意味で、「到達する」という意味はありません。これは、イエスの「神の国は近づいた」ということばの解説でよくされることですが、この「近づく」はこことは違う単語が使われていますが、同じく現在完了形です。それは、「もうすでに」と「いまだ」という両面を示しているということです。すでに受け取っているが、完全な完成はまだこれからというニュアンスです。


3,シナイ山の神経験

 さあ、それでは、その「もうすでに近づいていて、なお完全なときはこれからというもの」は何であるのかということを見ていきましょう。前半の18節から21節では、古い契約である旧約律法の世界を、後半の新しい契約との対比するために、その暗さ、恐ろしさの面を強調して描いています。よく読むと、「シナイ山」ということば自体は出てきません。しかし、ここに記されている内容が出エジプト記19章でモーセが十戒を神より受けるためにシナイ山に登るときの情景を表しているため、そう理解されています。それで、22節の「シオンの山」とシナイ山とが対照的に示されています。シナイ山は地上にあるので、「手でさわれるもの」でしたが、彼らがその時見たものは、「燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろき」でした。それは神の偉大なご臨在に触れることでしたが、あまりにも恐ろしい経験でした。
 誤解してはならないことですが、ヘブル書は旧約聖書の世界を否定しているのではありませんし、律法を悪いものとは一言も言っていません。むしろ、旧約聖書の時代に生きた聖徒たちの信仰に倣うように語ってきました。しかし、律法や前の契約が良いものであっても、キリストが現れて、このお方が真の天上の聖所に入られて、新しい神への道が開かれた今、それと比較するならば、どちらが素晴らしく、恵みに満ちたことなのかは明確であるということです。


4,シオンの山の神経験

 「シオンの山」とは、エルサレムのことです。山と言っても「丘」のようなもので、そこに神殿が建てられ、町が造られました。主が選ばれ、建てられた町でした。しかし、ここでは、実際の場所というよりも、「生ける神の都である天上のエルサレム」という象徴的に用いられています。そこには「無数の御使いたちの喜びの集い」があると言います。また、「天に登録されている長子たちの教会」ということばも出てきます。これらがどのようなことを意味しているのか、詳細はわかりません。ただ、「喜び集い」や「長子たちの教会」ということばから、現在の私たちの礼拝や集まりに重なるイメージがあります。
 ある聖書研究者たちの説明によると、地上に私たちの教会があるように、天上にも教会があることが示唆されていると言うのです。それは続く、「完全な者とされた義人たちの霊」ということばにも現れているように思います。あるいは、こう考えることもできます。近づいてすでに到達した私たちの今は、肉眼では確認できませんが、この礼拝の中に、実は、神の都があり、無数の御使いたち、聖徒たちが含まれているということです。そして、何よりも、ここには、あるいは彼方には、「すべての人のさばき主である神」がおられ、私たちのために血を流してくださった「新しい契約の仲介者イエス」がおられるのです。イエスが手を広げて、私たちの前にすでにおられるし、同時に未来で待っていてくださってもいるのです。前回少し紹介した内村鑑三のことばを引用します。「人生の目的は神を識るにあり、一度神に愛せらるるは百度帝王に寵せられ、千度公衆の人望を博するに勝る。…天国の一瞥は以て百歳の疾苦を拭うに足る。」(小林孝吉著『内村鑑三の聖書講解』教文館)。