「キリストにあって歩みなさい」

コロサイ人への手紙 2:6ー15

礼拝メッセージ 2025.7.13 日曜礼拝 牧師:太田真実子


◆キリストにあって歩みなさい(2:6-7)

 「私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています(1:29)」と語るパウロは、直接会ったことのないコロサイ教会の兄姉たちのためにも、彼らがキリストにある歩みを続けられるよう、心から願い、祈りつつ苦闘していました。
 すでに主キリスト・イエスを受け入れた彼らに対し、パウロは「キリストに根ざし、建てられ、信仰に堅く立ち、感謝にあふれるように」と励まし、継続的な信仰の成長を勧めています(2:7)。
 続くパウロの言葉からは、この勧めの背景にある問題の存在が見えてきます。パウロはどのような根拠をもって教え、警告しているのでしょうか。以下、2つの点から見ていきましょう。


1,キリストのうちにこそ、神のご性質が宿っている(2:8-9)

 第一に、コロサイ教会には「空しいだましごとの哲学(2:8)」と呼ばれる、誤った教えが入り込んでいました。それに対してパウロは、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が、かたちをとって宿っている(2:9)」と強く訴えます。
 このとき教会が直面していた誤った哲学の詳細は明記されていませんが、ユダヤ主義・神秘的な哲学・禁欲主義・天使崇拝などが混ざった教えであったと考えられています。いずれにしても、それはパウロが語ったキリスト教信仰とは異なるものでした。

 そこでパウロは、もう一度兄姉たちの目をキリストご自身に向けようとします。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が宿っている」——この言葉は、パウロが1章で述べたキリスト論を再び強調するものです。キリストは単なる預言者や教師ではなく、神ご自身。宇宙の創造主、支配者であり、教会のかしらです。だからこそ、パウロはコロサイ教会が人の作った教えに惑わされることなく、キリストというまことの土台に立ち続けてほしいと願っているのです。


2, キリストにあって満たされている(2:10-15)

 第二に、コロサイ教会は誤った教えに影響され、割礼の必要性を主張する人々の影響下にあったと考えられます。これに対してパウロは、キリストとキリスト者との関係において、すでにバプテスマによる霊的結合がなされていることを語ります。
 キリスト者は、キリストと共に死に、共によみがえるという神秘的な結びつきの中に生きているのです(2:12)。したがって、割礼など律法的な行いを救いの条件として強調するのは、キリストの恵みを軽んじることになりかねません。

 パウロは、キリストの十字架によって私たちの罪(債務)は取り消され、すべての権威あるものに勝利されたのだと語ります(2:14–15)。当時のコロサイ教会では、律法が霊的な存在によって与えられたと信じる者や、それらの諸霊力を神と人との仲介者として礼拝するような誤った信仰もあったようです。

 ここでパウロは、十字架の勝利をローマの凱旋式にたとえて描きます。戦いに勝った将軍が、自ら征服した敵の指導者たちを武装解除し、捕虜として市中を行進させたように、キリストも諸々の霊的権威を打ち負かし、キリストこそが全世界の勝利者として示されたのです。


◆パウロは、コロサイの兄姉たちに「キリストにあって歩みなさい」と勧めます。それはただイエスを信じるという一時的な体験ではなく、キリストに根ざし、成長し続ける継続的な歩みを意味しています。
 私たちもまた、時代に応じてさまざまな「空しい哲学」や「見せかけの敬虔さ」に触れる中で、信仰の土台を見失いそうになることがあります。だからこそ、私たちもパウロが語るように、神の本質が宿るキリストに目を向け、キリストに根ざして歩んでいきましょう。また、教会でそのことを励まし合っていきましょう。