ヘブル人への手紙 9:1ー10
礼拝メッセージ 2025.7.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,幕屋の礼拝を知ることで、新しい契約の素晴らしさがわかる
幕屋とは?
幕屋とは何でしょうか。幕屋をすぐにイメージできる方もあれば、そうでない方もいらっしゃるでしょう。簡単に言えば、外観は大型テントであり、その中で祭司が供え物をささげる儀式が行われていました。聖書辞典には、こう説明されています。「モーセがシナイにおいて神から命ぜられて作った聖なる天幕。そのなかに契約の箱が安置され、荒野の旅を続けたイスラエルにとって移動できる聖所であった。」(『新共同訳聖書 聖書辞典』新教出版社)。
幕屋の構造体自体は、出エジプト記の25章以降に詳しい記載があり、寸法も記されています。奥行きが約13.5メートル、幅約4.5メートル、高さ約4.5メートルの直方体の箱型でした。何十万人もの民の間で礼拝のために用いられたものであると考えるとあまりにも小さいようにも思いますが、幕屋の中に入れるのは祭儀を行う祭司だけでしたし、常に移動が必要な構造物であったと思うと、理解ができます。また、幕屋本体の周りは、幕が四方に張られて門があり、中庭もありました。
初めの契約にまさる新しい契約
それではなぜ、著者がこのところで幕屋のことについて説明しているのでしょうか、その理由は何でしょう。その第一の目的は、新しい契約が初めの契約にはるかにまさっていることを明確にするためです。まさっているというよりも、イエスさまによってなされた新しい契約は、その本体、本物、完成形であることを明らかにしているのです。
それはたとえば、私たちが良いものを知らされたり、獲得できたとしても、もしそれ以前のものがいったいどんなものであったのかを知らなくては、正しい価値を把握できないのと同じことです。前のものは前のもので良いところもあったが、これこれこういうところが不十分で残念な点だった。しかし、この新しいものはその点をクリアしているばかりか、前のものと比べられないほど立派で、際立って優れているということを示すためです。
著者が言いたいことは、新しいものが現れたならば、必然的に古いものと取って代わるということです。古いものはもはや不要になります。ただ、ここで注意しておきたいことは、著者はこの最初の契約について価値のないものとは見ていないということです。なぜなら最初の契約や礼拝の諸規定も、神ご自身が定められ、命じられたものだからです。最初の契約を通じて、神は特定の礼拝の形態と特別な建物や仕組みを示されました。そのことはこれまで挙げられてきた旧約聖書人物モーセ、ヨシュア、アロン、そして御使いたちについても同じことが言えます。著者は決してそれらの人物や事物のことを軽く見ていません。むしろ称賛しており、大いに敬意をもって記しているのです。そうすることで、彼はキリストのことをより一層高め、心から賛美しているのです。
2,幕屋の礼拝を知ることで、キリストの素晴らしさがわかる
燭台などの調度品が示すキリスト
続いて、ここで幕屋の説明をした著者の第二の目的を見ましょう。それは、これら古い契約に基づいた礼拝のあり方を知り、学ぶことで、新しく現れた契約そのものであるイエス・キリストのことが、さらによくわかるようになるということです。イエスの十字架、復活と昇天といったことは、旧約時代に行われてきた礼拝や儀式を通して見ていくなら、それが何を意味しているのか、それがどんな恵みを私たちにもたらすことになったのかが、「比喩(ギリシア語でパラボレー)」(9節)によって、実に鮮やかに映し出されることになるのです。
2節「…そこには燭台と机と臨在のパンがありました。それが聖所と呼ばれる場所です。」とありますが、この燭台が象徴しているように、イエスさまは私たちの行く道を照らしてくださいます。祭司は燈心を適切に切り、昼夜を問わず、明るく燃え続けるようにしたのです。私たちには暗闇の中にいる人々に真理の光を灯すお方が必要です。イエスは言われました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)。また、イエスさまは「机と臨在のパン」で象徴されているように、私たちの糧そのものです。イエスは日々私たちを養い、そして支えておられます。祭司たちはこのパンを食べました。そうすることで、神が王様のように民を守り、支えてくださる方であるという契約を十二部族の代表として彼らが受け取ったのです。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)と主が言われたことを想起させます。
4節の至聖所に置かれた「金の香壇」は、私たちのために常にとりなしてくださるイエスの御姿を思わせます。祭壇の前の垂れ幕の前に進み出た大祭司は、炭と香を取り、神の前で祈りながら、至聖所でそれらを燃やしました。至聖所には、年に一度「贖罪の日」だけ、大祭司ひとりが入ることができました。そこに契約の箱がありました。その箱の中に非常に貴重な品々である「マナの入った金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の板」(4節)が納められていました。
宥めの蓋が示すキリスト
契約の箱の上側には「栄光のケルビムが『宥めの蓋』をおおっていました」と著者は述べています。詳細なことは、出エジプト記25章17節から22節に書かれています。22節を見ておきましょう。「わたしはそこであなたと会見し、イスラエルの子らに向けてあなたに与える命令を、その『宥めの蓋』の上から、あかしの箱の上の二つのケルビムの間から、ことごとくあなたに語る」。これが意味することは、そこで神が人間と出会ってくださるということです。しかし、この初めの契約、礼拝の諸規定によれば、神と出会う至聖所に入れる人は大祭司一人しかいませんでした。この古い契約では、人が神さまにアクセスすることは非常に限られており、困難なことでした。しかし、神は御子キリストを私たちに与え、この方こそが『宥めの蓋』となってくださったのです。ギリシア語でヒステーリオン、第三版では「贖罪蓋」と訳されています。レビ記16章11節から19節を見ると、大祭司は自分の罪と民の罪のきよめのために、この宥めの蓋の上と前とに、いけにえの血を振りかける儀式をしました。キリストこそ、まさにこの『宥めの蓋』です。パウロがローマ人への手紙3章25節で語っています。「神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物(ヒステーリオン)として公に示されました」(括弧は筆者)。主の十字架によって、隔ての幕は裂かれ、神との出会いと交わりが可能となりました。主イエスの血が、人間が神と交わることのできる唯一最大の根拠です。