ヘブル人への手紙 7:1ー10
礼拝メッセージ 2025.6.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,固い食物であるメルキゼデク
7章が教えていることの意味とは
「このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているから」(5:11)と辛口な表現で述べてきた著者でしたが、霊的に「固い食物」であるメルキゼデクの話を7章で語り始めています。それがいくら「固い食物」であっても、この説明抜きでは、正しくイエスさまのことを伝えられないと思ったからでしょう。当時の読者たちにとって、ここからの説明は「固い食事」だったわけですが、現代の私たちにとっても別の意味で、かなり歯ごたえがありそうです。たとえば、今日の箇所や7章全体を読んで、「メルキゼデクって、いったい誰?」、「祭司の説明をしているようだけど、それが現代の私たちとどう関係するの?」というような疑問が湧いてきます。
それでは、ここをどう読み解けば良いでしょうか。まず、聖書は、私たちが真の幸福を得るために「神による救い」が必要であると教えています。その「救いの恵み」を神から受けるために何が必要かと言いますと、その人の罪が赦されなければなりません。つまり、「罪の赦し」が必要です。その「罪の赦し」を受ける方法は、旧約聖書では、神が定めた儀式が必要であると教えていました。神殿や幕屋という場所で、律法で定められたいけにえを捧げる儀式です。その儀式を行うために、「場所」、「いけにえ」、「儀式を行う人」の三つが必要ですが、ここでは「儀式を行う人」のことが取り上げられています。つまり、「祭司」です。「祭司」は、誰でもやりたい人がなれるわけではなく、レビ族に属しているという絶対条件がありました。
イエスさまが大祭司と言える理由とは
これまでの内容を振り返ると、ヘブル書の著者は5章あたりから、イエスさまのことを「私たちの大祭司」と呼んで、イエスさまこそ最高の祭司であると説明してきました。しかし、旧約聖書の知識がある人たちは、イエスさまが、はたして「祭司」と言えるのか、と反論していたのです。なぜならイエスさまの出自は祭司になれるレビ族ではなく、ユダ族から出られたのですから(7:14)。ユダ族なのに、なぜ祭司の役割を担っていると言えるのかということです。そして彼らのうちのある者はこう思っていました。だから、救い、すなわち罪の赦しを受けるために、律法に記された儀式をこれからも行うべきであるし、その教えに帰るべきだと。そういうことが言われている中で、信仰が揺れ動いている信仰者たちや教会に向かって、著者は、「いや、決してそうではない、イエスさまこそ、私たちの永遠の大祭司です」と断言して、このお方にこそ心をしっかりと集中するように注意を促し、励ましのことばを述べたのです。著者は、この難題に対して、驚くべき答えを用意していました。それは反対者たちを「あっ」と言わせるような内容でした。それが「メルキゼデク」という人物のことからの説明です。それでは、メルキゼデクとは、どんな人なのでしょうか。7章1節の下欄引照箇所にあるように、メルキゼデクは創世記14章17節から20節のところに登場する人物です。
メルキゼデクとは何者なのか
アブラハムがまだ「アブラム」と呼ばれていたころの話です。そのころ、豪族たちが各々の土地を治めているという群雄割拠の時代で、小規模の軍事的衝突があちこちで起こっていました。当時、族長アブラハムの家も大きな勢力の一つになっていて、それらの争いに巻き込まれてしまいました。アブラハムの家に属する人々や甥のロト、そして財産と食糧が四人の王たちによって略奪されるという事件が起こったのです。アブラハムはすぐさま三百人以上の手勢を率いて追跡を続け、ついに王たちを打ち破り、見事奪還に成功しました。アブラハムが戻って来たとき、突然、サレムの王で祭司であったメルキゼデクという人が現れ、アブラハムを迎えて神さまの御前に祝福をしたのでした。そしてアブラハムはメルキゼデクに十分の一を捧げ物として渡しました。以上がメルキゼデクについての話であり、詩篇110篇4節を除けば、そのほかには旧約聖書中、この人物について何も記されていません。
ヘブル人への手紙7章2節と3節「アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず『義の王』、次に『サレムの王』、すなわち『平和の王』です。父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです」。たいへん謎めいています。さまざまな見解がありますが、おそらく彼はキリストの「ひな型」(予型)的な人物であり、歴史上に実際に存在した人であったことでしょう。「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく」というのは、何か人間離れしているかのような印象を与えますが、それは彼の父母や系図、また詳しい生涯のことが創世記には何も記されていないということです。その唐突さと不思議さこそが、この人物がキリストのひな型を表すために特別に選ばれ、現れた人であったことを著者は語っているのです。
2,イエス・キリストこそ私たちの王である祭司
著者がここで伝えようとしていることは、「メルキゼデクの例」(5:10、6:20等)に倣う祭司は、レビ族系祭司よりも明らかに優れていることです。第一の点は、キリストという、「メルキゼデクの例に倣う」祭司は、アロン系祭司と違って、王でもあるということです。彼は、2節の通り、メルキゼデクという名前が示すように、メルク(王)+ツェデク(義)、すなわち「義の王」です。「サレムの王」の「サレム」は後の「エルサレム」のことですが、さらに「サレム」とはシャローム(平和)を意味します。メルキゼデクが指し示すキリストは、まさに義と平和の王を兼ねている祭司として来られた方なのだということです。第二の点は、レビ系祭司と異なり、イエスさまは永遠の大祭司であるということです。3節に「いつまでも祭司としてとどまっている」とあります。レビ系祭司職は終身的なものであっても、永遠のものではありませんでした。また、家系として続いたとしても、神殿という場所と制度がなくなれば、祭儀を行うことができず、有限な働きにとどまるものでした。ところが、キリストが担う祭司職は永遠に続いていきます。イエスさまはずっと「私たちの大祭司」として私たちを救い、とりなしていてくださいます。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」(13:8)と著者は記し、また「イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります」(7:24〜25)と書いています。