「子の権威」

ヨハネの福音書 5:19-30

礼拝メッセージ 2024.12.15 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


父としての神と子であるイエス

 ユダヤ教において神を父と呼ぶ習慣はあったようですが、イエスも自らを子と呼んで、イエスは自らと神との関係を親しいものとして捉えています。この親しさは、子であるイエスが父である神に従うことで表わされます。


【コラム】 アッバ

 イエスは神を「アッバ」と呼びました。幼児用語であったと考えられ、他のユダヤ人たちには見られない呼び方であったようです。


イエスへの疑問

 イエスの語る言葉も行動も、当時のユダヤ社会の常識からすれば、受け入れがたかったことでしょう。そのようなイエスの言動が許されるとするならば、その権威と正当性は何に拠っているのか、そのような疑問が人々にはありました。イエスはそれに応えて、子であるイエスが父である神に従っているから、そこに権威と正当性を認めることができると言います。


中心にいる子イエス

 イエスは神から裁きの権威も与えられていますが、それは私たちのイエスに対する態度・姿勢が裁きの基準であるとされています。肉となったイエスを信頼し、イエスに従い、その結果として善を行う者が命を得ていくのです。裁きも行いも、その中心には子であるイエスがいます。それは一般的な裁きでも善・悪でもありません。イエスを通して明確にされている神の意思・価値観が私たちに命をもたらすのです。


子の権威に服する

 子であるイエスの権威あるいはその言動の正当性は、父である神にあると聖書は証言します。すでに見てきたように、子の権威と私たちとの関わりについても、聖書に述べられています。私たちに求められていることは、イエスを信頼し、イエスの考え方に賛同し、イエスに従うことです。それを聖書は様々な表現をしています。救われたとか、聖霊に満たされるとか、復活のいのちを約束されるとか、恵みをいただくとか… イエス自身が自らの言葉と行動を顕わした時代に生きる私たちにとって、これらの様々な表現や言葉はイエスを離れては意味をなさないのです。そうでなければ、誤解を生んでいることになります。例えば、イエスの生き方抜きに聖霊に満たされることは、キリスト者としてはありえません。
イエスがその言葉と行動によってなそうとしたことは、苦しんでいる人々がその苦しみから解放されて人間の尊厳を回復することです。人が神に創造された者として、それに相応しく互いに尊敬し合って暮らしていくことです。悲しいことですが、人間は自己中心に生きています。それを聖書は罪と呼び、その罪は自分や他者を苦しめます。イエスはそのような人間を自己中心の生き方から解放し(罪の赦し)、イエスの価値観に従うように招きます(悔い改めと救い)。子であるイエスは、自らの業が父である神に従うことで権威づけられ、正当化されると言っています。それは、イエスの言動は聖書の神の考え方であることを述べていることを意味しています。逆に言えば、神は自らの考えを見える形となった子であるイエスを通して顕わしたのであるから、聖書の神を知ろうとすれば、聖書の神に従おうとすれば、イエスを見続け、イエスに従う他はないということです。