「献げる喜び」

マルコの福音書 12:41ー44

礼拝メッセージ 2015.3.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは私たちの         (生活)すべてを見て知っています

①イエスは私たちひとりひとりに目を注いでいます

 あなたはどんな人に興味を持ったり、好意を感じるでしょうか。イエス・キリストは、貧しいひとりのやもめに愛のまなざしを向けられました。この前の聖書箇所で、律法学者たちは「長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好き」だったと記されています。彼らは人々からの関心と注目を得ることに一生懸命だったようです。しかし、イエスが高く評価されたのは、彼らではなく、目立たず、日の当たることのないみじめな生活を送っていたようなひとりの女性でした。場面は、神殿で、婦人の庭と呼ばれている場所でした。その壁にラッパ状の献金箱が据えられていました。多くのお金が投げ込まれると大きな音が響いたのかもしれません。そこへ貧しいやもめはレプタ銅貨2枚をポトンと投げ込みました。様子を見ておられたイエスは、何もかもご存知でこう言われました。「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(43−44節) ここで明らかなことは、イエスはすべてのことを見通しておられるということです。私たちが見えるのは表面的なことに過ぎませんが、その人の生活のすべてとその人の心の奥深くまで、イエスは正しく見ておられるのです。

②イエスは私たちの礼拝生活に目を注いでいます

 ここでイエスは、人々がどのように神殿において礼拝しているのかをご覧になっていました。13章で明らかになることですが、この神殿はやがて破壊され崩れていくものでした。どうせいつか壊れていくものであることがわかっているなら、なぜその神殿で献金する人のことをほめているのでしょうか。ささげられた物は確かに有効活用されるように努めていくべきものですが、それだけが重要なのではありません。むしろ、人が神の前に懸命に歩み、礼拝をし、ささげる姿をイエスは喜びをもって見つめておられるのです。


2,貧しいやもめはささげる          (喜び)を知っていました

①ささげることには犠牲がともないます

 この女性がささげたお金はレプタ銅貨2枚でした。今で言う「小銭」です。しかしそれはこの人にとって「あるだけを全部、生活費の全部」でした。「乏しい中から」という言葉は、英語のある訳(CEB)では「彼女の絶望的な貧困の中から」(from her hopeless poverty)と訳されています。それは少ない中からということではなく、むしろ経済的にマイナス状態にあるところの中からという意味です。ささげるというのは、お金があるからする、あるいはお金があまりないからしない、というような考えでなされるものではないことが明らかにされています。

②ささげることは心の喜びから生まれます

 でも、「生活費の全部」を献金としてささげることが命じられているというのは、あまりにも無茶な考えだと思う方もあるでしょう。確かに、イエスは、すべてを捨てて、自分の十字架を負って、ついて来なさいと命じられました。けれども同時に、自分の生活やその家族の養育責任を放棄せよとは命じていないのです。私たちには各々、担うべき重荷があります。そうではなく、ここで私たちが注目すべきなのは、彼女の心なのです。このとき、彼女は悲壮感を抱いて献金をしたと思いますか。私は絶対に違うと思っています。むしろ、彼女は嬉しくて仕方なかったのではないだろうかと想像しています。いくらささげてもささげきれないほど、主への感謝の思いとその喜びが内側に湧き上がってくるのを感じていたのではないでしょうか。

③ささげることはまことのいのちを神の中に見い出すことから出てきます

 44節で「生活費の全部を投げ入れた」とありますが、この「生活費」という言葉は、ギリシャ語では「ビオ」という言葉で、今日「バイオ」何々と言う言葉の語源です。それは「生命」「いのち」「人生」を意味する言葉です。だから、これは「彼女の生命の全部」あるいは「彼女の人生のすべて」を投げ入れたということと同じです。彼女はこの献金をささげたあと、神殿内の混み合う雑踏の中に姿を消したでしょう。イエスも彼女を追って声をかけることもしなかったのです。名声も、一時的な報いも、人からの評価も、この女性には不要でした。彼女の心の中にはキリストがおられたし、「隠れた所で見ておられる御父」が自分を知り、愛して、まことのいのちを与えてくださることを知っていれば、それで十分だったのです。