マルコの福音書 14:1ー11
礼拝メッセージ 2015.4.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,この女性は主イエスへ (最上のもの)を惜しみなくささげました
①「純粋で、非常に高価なナルド油」(3節)— 最上のもの
ひとりの女性がイエスの頭にナルドの香油を注いだこの美しい出来事は、その前後(1−2節と10−11節)に祭司長など宗教指導者たちによるイエス殺害の陰謀のことが書かれています。イエスに、かぐわしいささげ物をした女性の姿と殺意に燃えた人たちの話との明暗はあまりにも対照的です。このナルド油は非常に高価で、三百デナリ以上(5節)の価値がありました。この女は最善で最上のものをささげたのです。
②「そのつぼを割り…注いだ」(3節)— 全部
「つぼを割り」ということは、そのつぼに入っていたすべてを注ぎ尽くしたということです。もう元に戻すことはできません。たった一回で、三百日分の労働賃金に値するものを使ってしまったのです。これは神にささげるとはどういうことなのかを私たちに教えています。決意したら、迷いを捨て、惜しみなく、すべてをささげ切るのです。
③「何人かの者が憤慨して」「その女をきびしく責めた」(4−5節)
ささげる行為に対しては、しばしば理解されず、ときに非難の声や反対も起こります。また、私たちだれもが「三百デナリ以上に売れて」と計算し、効率を考えやすいし、それが完全に悪いのではありません。しかし、神への愛、主への献身に計算はできないのです。
2,この女性は主イエスにささげる (機会)を逃しませんでした
①「貧しい人たちはいつもあなたがたといっしょにいます」(7節)
イエスは貧しい人たちへの施しや世話を大切にされ、弟子たちにもそれを教えておられたので、この箇所の言葉がそれを否定しているわけではありません。むしろ、女への非難の言葉を発した人たちの心を知っていたので、このように言われたのでしょう。むしろイエスが言われたのは、女をきびしく責めるあなたがたは、これまで貧しい人たちに対していったい何をしてきたのですか、と戒められたのではないでしょうか。
②「しかし、わたしはいつもあなたがたといっしょにいるわけではありません」(7節)
7節の言葉を部分的に直訳すると「貧しい人たちをあなたたちはいつも持っている。しかし、わたしをあなたたちはいつも持ってはいない」という感じになります。「持っている」という言葉はそのままだと理解しにくいのですが、日本語でも「家族を持っている」あるいは「親や子を持っている」という表現に近いと思います。つまり、主イエスを持っているとは、この方に会うことができ、会話することができ、交わりをすることができるということです。しかし、それはいつでもできるわけではないとイエスは言われました。当時の弟子たちにとっては十字架に向かわれる中ということもありますが、私たちにあてはめて理解すると、それは、いつか信じよう、次の機会に奉仕しようと思っているうちに、その機会は失われてしまうかもしれないということです。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」(イザヤ55:6)「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9:4)
3,この女性は主イエスを (愛して)、何をささげたら良いのかを考えました
①「この女は、自分にできることをしたのです」(8節)
「自分にできること」とは自分にとって容易にできることだけを意味しているのではありません。何かの犠牲をともない、労力や努力が求められるようなことを指しています。
②主イエスに受け入れられ、喜ばれるささげものとは
8節で「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれた」と、イエスは女性がささげたことを喜びをもって受け入れられ、9節で称賛の言葉を語っておられます。このささげ物はこれから十字架に向かわれるイエスに対して、確かに最善の贈り物となりました。結局、イエスのからだに香料を塗る特権は彼女ただひとりのものになりました(参考16:1−6)。この女性が光栄を得られたのは、心から主イエスのことを愛して、何が主に喜ばれ、受け入れられるのかをよく考えて実践したからです。それは彼女がささげたいものをささげたのではなく、主が喜ばれるものを求め、そのために犠牲をはらったからです。