「痛みを知る人— 最後の晩餐①」

マルコの福音書 14:12ー21

礼拝メッセージ 2015.4.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスは未来を予見して      (過越)の食事の準備を弟子たちに命じられました(14:12−17)

①イエスは未来を予見しておられます

 イエスは、弟子たちに過越の食事の準備をするために、ふたりの弟子たちをお遣わしになります。弟子たちが町に入ると、水がめを運ぶ人に出会い、その人の後について行くと、ある家に入り、その家の主人に二階の広間に案内されます。すべてイエスの言われていたとおりにすでに備えがなされているのです。イエスと十二人の弟子たちが食事をするための場所が確保されていたのです。エルサレム入城(11章)のときと同じように、イエスがすべて見通されており、弟子たちが行くと、すぐに準備にとりかかれるように整えられていたのです。この箇所でも明らかなように、イエスはこれから起こる未来のこともすべてご存知で、いっさいを御心のままに導いていかれるのです。

②イエスは過越の食事の準備をされました

 ここで注目すべきは、未来のためにイエスが何をここで備えられたのかということです。主は過越の食卓を備え、導かれたのです。過越祭や種を入れないパンの祝いは、神の力強い導きにより、エジプトの圧政からイエスラエルの民が脱出したことを記念するものでした。そのとき、小羊がいけにえとしてほふられました。イエスはご自分が過越の小羊(Ⅰコリント5:7)として十字架に架かられることを知っておられました。その上で、この過越の食卓に、弟子たちを招いておられたのです。「さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。」(ヘブル10:7)との思いをもって、十字架に向かわれたのです。


2,イエスは未来を予見してこれから起こる苦しみや      (悲しみ)を受け入れられました(14:18−21)

①イエスはユダのこれからを知って、悲しまれたのです

 イスカリオテのユダ。裏切り者として名高いこの人物は、十二弟子のひとりであり、イエスのおそば近くに仕えた人でした。ところが、この前の聖書箇所の10−11節にあるように、祭司長たちと密約し、イエスを売ったのです。21節で厳しい言葉がイエスによって語られました。「人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」。ユダについて、そしてその定めについて、神学者や哲学者、心理学者までもがいろいろな見解を出しています。神の選び、予定などの神学での論議は、簡単には答えが出せない難しい問題です。ここで言われたこの言葉をどう理解したら良いでしょうか。完全な説明は困難です。ただ言える一つのことは、このイエスのお言葉は警告的な響きを持っていることは確かかもしれませんが、よくこの場面を想像して考えると、これはイエスの嘆きと悲しみから出た苦しみの言葉ではないでしょうか。イエスはこれまで、ユダを愛して選び、教え、導いて来られました。その大切な弟子が自分を裏切り、これから自分を引き渡すことを予め知っておられたゆえに、悲しみのあまり、「わざわいだ」と語られたのでしょう(参照;Ⅱ列王8:10−15)。

②イエスは未来に待ち受ける悲しみと苦しみを受け入れられました

 詩篇41:9「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。」(「かかとを上げる」は反逆と敵対の象徴)とあるように、食事をともにしている親しい者に、イエスは裏切られました。イザヤ書53:3「彼は、…悲しみの人で病を知っていた」というメシア預言の一部にあるように、イエスはまさに「痛みを知る人」でありました。このあとイエスを待ち受けている現実は、ユダの裏切り、弟子たちの離反、不当な裁判と侮辱の数々、十字架刑によるむごたらしい死でした。この聖書箇所が明確にしていることは、イエスが未来を予見しておられ、その未来の出来事を支配する力を持っておられたということでした。ところがその苦しみをあえて通って行かれ、父なる神の御心に合わせ、十字架の死にまで従われたのです。イエスが「痛みを知る人」であるというのは、単にその苦しみを人生で味わわれたというだけにとどまるものではありません。それらを十分に予期しつつ、避けることなく甘受し、突き進んで行かれたのです。