「自分をささげた人— 最後の晩餐②」

マルコの福音書 14:22ー26

礼拝メッセージ 2015.5.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「これはわたしの         (からだ)です」ーイエスはご自身を私たちに与えてくださいました(14:22)

①パンと杯とに集中するようにして描かれた主の晩餐の記事

 過越の食事は、ニサンの月(ユダヤ暦の第一月で3−4月に相当)の14日の日没とともに始められました。この過越の祭は、出エジプトの出来事に由来して行われ、ユダヤの人々にとってそれは信仰の中心となる記念でした。クリスチャンにとっては、キリストの十字架と復活こそがその信仰の土台なので、その意味を予示した最後の晩餐(主の晩餐と呼ばれる)は、福音のいのちの豊かさを表すものとなりました。22−25節に記されている内容を見ると、ふつう過越の食事にある祈祷や食する小羊の肉、また第一の杯に始まる順番など、その詳細は不思議と触れられていません。イエスご自身がパンを裂いて与えられ、「これはわたしのからだです」、杯をまわされて「これはわたしの血です」と言われたことにこそ、重大な意義があったからです。当時の人たちが日常的に味わっているパンとぶどう酒を用いられることによって、主を信じて生きることが宗教的な行事に限定されるようなあり方ではなく、日々の生活の中に浸透していくものとされたのです。

②「これはわたしのからだです」—神の御子という最大の犠牲

 「わたしのからだ」とは、肉体だけを指して言っているのではなく、その人全体、全人格を表しています。そのように理解すると、「このパンを見なさい。わたしはこのパンのように、父なる神によって取り上げられ、祝福され、そして裂かれて、あなたがたひとりひとりに分け与えられるのだ」と言われているような気がします。十字架に架かられていくイエスがご自身を私たちに与えられたことを表しているのです。この少し前の聖書箇所で、高価なナルドの香油を捧げた女性のことを記していますが、実は、最も多く、高価な犠牲を払われたのは、神の御子イエスであり、父なる神でありました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)


2,「これはわたしの         (契約)の血です」ーイエスは新しい契約を私たちに与えてくださいました(14:23−26)

①「これはわたしの血です」−いのち

 血はいのちそのものであると聖書は記しています。「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです。」(レビ記17:11) イエスが血を流してくださったということは、いのちそのものを私たちに与えてくださったことを意味しています。

②「契約の血です」—救いの契約の血

 出エジプト記24:8で、モーセは動物の血を民に注ぎかけ、それを「契約の血」と呼んでいます。「そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。』」上記のレビ記17:11にも「わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」旧約聖書のこれらの言葉が明らかに語っていますように、イエスが流される「契約の血」は、イスラエルの贖いの完成のために十字架があることを示しているのです。しかもそれは、「多くのひとのために」(24節)と語られたように、イスラエルの民に限定されず、すべての人々におよぶ救いの恵みでした。

フランシス・R・ハヴァーガル(1836-79)
「主は命を」I gave my life for thee(新聖歌102番)

「わたしはあなたにわたしのいのちを与えた。
 わたしの貴い血を流したのは、
 あなたが贖われ、あなたが死からよみがえるためだ。
 わたしは確かに与えた。わたしはあなたにわたしのいのちを与えた。
 あなたはわたしのために何を捧げたのか。」
             (原歌詞の1節より私訳)