「人間的決意と神への祈り」

マルコの福音書 14:27ー42

礼拝メッセージ 2015.5.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエス・キリストは、弟子たちの       (弱さ)をよく知っておられますが、しかし励まして導いて行かれました

①イエスは、みなつまずくことを知っておられました

 イエスの逮捕のとき、予告されていたとおり、すべての弟子たちが逃げ去って行き、イエスたったひとりが残されました。イエスは孤独のうちに苦しみに耐え、辱めを受けて、十字架にかかられました。「あなたがたはみな、つまずきます」と言う中、ペテロを先頭に、私はつまずかず、ご一緒に死ぬ覚悟です、と豪語したこともむなしく、イエスのお言葉通りになりました。人間の弱さ、限界を聖書は明らかにしているのです。

②イエスは、繰り返し「目をさましていなさい」と励まされます

 人の弱さを知った上で、イエスは「目をさましていなさい」と弟子たちを励ましています。「目をさましている」というのは、この世の目に見えることにのみ執着し、安心したり、悲観したり、怠惰になることなく、信仰の目をしっかり開いて、祈り、用心していなさいということです。ゲツセマネで弟子たちが眠りこけてしまったことは、肉体的な疲労、悲しみや思い煩いも、かえって霊的に眠らせてしまう恐れがあることを示しています。

③イエスは、復活の後、弟子たちに先立ち導いて行かれます

 励ましの言葉の中に、約束が語られています。「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」(28節)。「先に…行く」という言葉は元の単語では一つの語です。それは「先立って導いて行く」という意味があります。弱さを知ってなお、わたしはあなたがたを導いてあげようと云う愛にあふれた約束を、イエスは予め語っておられたのです(参照16:7)。


2,イエス・キリストは、自ら人間としての弱さを経験され、       (祈り)をもって進んで行かれました

①イエスから学ぶ祈り−どんなときにも心を神に向けて祈りなさい

 イエスと弟子たちの対比で見ると、確かに弟子たちの弱さが際立っていますが、ゲツセマネでのイエスのお祈りの姿を見ると、驚くべきことに、イエスご自身がひとりの人間として苦しまれている様子が描かれています。弟子たちの「つまずき」を預言され、受け止めていかれるところに、イエスの神なるご性質(神性)を見る一方で、祈りの中に見せられる、その苦闘するお姿は、あまりにも人間的なあり方で、主の人間としてのご性質(人性)を明らかにされているといえるでしょう。それゆえに、ここに示されているイエスのお姿から、私たちは多くを学ぶことができます。人としてのイエスは、危機に際して、祈ったのです。

②イエスから学ぶ祈り−神の前に幼子のようになりなさい

 「恐れるな」としばしば弟子たちに命じられたイエスご自身が、ここでは「深く恐れもだえ始められた」(33節)のです。そしてこう言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい」(34節)。全人類の罪を背負って十字架にかかる恐怖は、どんな人間も味わうことのできない想像を絶する苦難でしょう。それでも、ここに見るイエスのお言葉は、気の弱くなっている人が口にする言葉であり、弟子たちに対する「ここを離れないで」というのも、一緒にいて欲しいと言う友へのお願いのようにも受け取れます。「アバ、父よ」(36節)の言葉と合わせて考えると、イエスは全く、父なる神の前に、幼子のようになって、心を裸にして祈っていることがわかります。

③イエスから学ぶ祈り−神に信頼して、ゆだねなさい

 「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」とイエスが祈られたことを聖書は記しています。注意して学びたいことは、最初から「みこころのままを」とお祈りされなかったことです。祈りは、本心からなされなければなりません。自らの願い、欲するところを述べることに最初から蓋をしてしまうならば、神への正直さを失い、偽りの心で神に向かうことになってしまいます。そうでありつつも、さらに祈りは、自分の願うことから、神のみこころへと導かれていきます。「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを」という祈りは簡単に出てくるものではなく、祈りの格闘から生まれます。私の願いよりも神の願われることが最善であるとの平安が確信となっていくのです。それが「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ4:7)です。