「真の安息への招き」

マタイの福音書 11:25ー30

礼拝メッセージ 2015.5.31 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,「わたしのところへ            (来なさい)」

①「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」

 イエスが招いておられるのは、「疲れた人」(「疲れ果てた人」)、「重荷を負っている人」です。ここで言われている「疲れた人」とは、2通りに理解する必要があります。1つは現実に肉体的に疲れている人、また心に疲れを覚えているすべての人のことです。でも、さらにもう1つの点は、当時の宗教指導者たちによって背負わせられた律法主義の重荷でした。「彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません」(23:4)とあります。他の人の声であろうと、自分の中から聞こえてくる内なる声であっても、あなたを責め立てる声を聞いて疲れているのなら、イエスのもとへ行ってください。

②なぜ、イエスのところへ行かないのでしょうか

 今も昔もそうですが、イエスのところへ行く人と、行こうとしない人がいるのです。その一つの理由が25〜27節に明らかにされています。自分は賢い、知恵ある者との思いがあったり、プライドが高かったりすると、素直に聖書の言葉を聞くことが難しくなります。へりくだり、幼子のようになって、イエスに求めることができるように互いに祈りましょう。なぜなら、子、すなわちイエスが私たちの心の目を開いてくださらなければ、御父である神を知ることができないからです。

③イエスのところへ来たら、あなたのたましいに安らぎが来ます

 「わたしがあなたがたを休ませてあげます」(28節)の言葉をどうか自分の心に向かって語りかけてみてください。「休ませる」というのは、休息を与えることばかりか、疲れと重荷を背負って苦しんでいる状態からの救いと、元気づけることも含まれています。イザヤ書40章に「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。…主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(28〜31)とあります。


2,「わたしから             (学びなさい)」

①幼子にだけ現される真の知恵

 イエスは私たちを招いて、休ませ、憩わせることで終わらせることはありません。ご自分のもとへ来た人たちをイエスは真の充足と喜びを得させるため、「学びなさい」と語られるのです。では何を学ぶように言われたのでしょうか。それは神の真理、御言葉です。知的に学ぶことはもちろんですが、「へりくだった」お方であるイエスから学ぶのですから、学ぶ者もへりくだりの姿勢で学ばなくてはならないのです。

②イエスから学ぶ

 「わたしから学びなさい」とイエスは言われています。日々の生活の中でいつもこの方が自分とともにおられることを認め、愛し、従うようにして学ぶ必要があるのです。「わたしとともに歩み、わたしとともに働きなさい。強制的でない恵みのリズムを学びなさい。」(E.H.ピーターソン「ザ・メッセージ・バイブル」11:29)


3,「わたしの          (くびき)を負いなさい」

①なぜ「くびき」なのでしょうか

 「くびき」というのは、耕作のため牛やろばなどの首につけて、鋤、車を引かせるために使用する木製の道具のことです。「くびき」は首につけるものなので、苦役や奴隷状態などを象徴することが多く、罪の重荷や律法の制限を示しました。それはあまり良いイメージを持つものではありません。けれども、イエスはここで「わたしのくびき」を負いなさいと言われました。

②イエスのくびきを負いましょう

 「くびき」は畑などの耕作のために使用されたものでした。「くびき」をつけた牛の働きによって、畑は効率よくたがやされていくのでした。私たちがイエスというお方の「くびき」を負うことは、このお方とともに働き、奉仕することを意味しています。イエスの言われた新しい律法「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもたがいに愛し合いなさい」を心に留めて歩むことです。30節の「負いやすい」という語は「ここちよい」「益となる」の意味があるのです。