「私たちの真実の王」

マルコの福音書 15:1ー20

礼拝メッセージ 2015.6.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,イエスが          (沈黙)されたことを心に留めましょう

①ピラトはイエスの沈黙に驚きました

 ピラトという人物は、使徒信条に出て来る唯一の人物です。「主は…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」とあります。彼はローマ帝国からユダヤに派遣された総督(26〜36年在位)でした。イエスの裁判の前にもおそらく多くの場で被告人を尋問し判決を下してきたことでしょう。ところが、死刑になるかもしれないというのに、このイエスという人は不当な証言がされる中、じっと黙っていたのです。そんな人を今まで見たことのなかったピラトは驚いたのでした(5節)。

②イエスはなぜ沈黙されたのでしょうか

 イザヤ書のメシア預言に次のような言葉があります。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザヤ53:7)。イエスは父なる神に強い信頼を持ち、その御心に従われたゆえに、人々がどうであろうと、状況がどうであろうと沈黙することがおできになられたのでしょう。哀歌にもこうあります。「主の救いを黙って待つのは良い。人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい」(哀歌3:26−28)。イエスの沈黙は、(父なる)神の沈黙の中で持たれたものであり、それは信頼ゆえの平安と御心にゆだねる祈りの静けさを示すものでした。


2,イエスが            (十字架)の刑に引き渡されたことを心に留めましょう

①犯罪人のバラバがイエスの代わりに解放されました

 バラバは「暴動のとき人殺しをした暴徒といっしょに牢に入っていた」(7節)人物であり、「強盗」(ヨハネ18:40)とも記されています。詳細はわからない人ですが、ここでマルコの福音書が示している大切な真理は、罪のないお方(イエス)が、罪を犯した者のために身代わりに死に引き渡され、そのことによって罪ありとされていた者が罪赦され、解放されたということです。だからバラバはここで福音の真理を明らかに表す象徴的な人物として示されているのです。

②群衆はイエスを「十字架につけろ」と叫びました

 群衆が祭司長たちに煽られてであっても、イエスに対して「十字架につけろ」と叫んだことはたいへん重いことであったと思います。先のバラバと同様に、これらの人々の中に、自分の姿を見たり、自らの罪深さを見い出すのではないでしょうか。


3,イエスが             (はずかしめ)を受けられたことを心に留めましょう

①兵士たちはイエスをはずかしめ、弄びました

 イエスは「紫の衣」を着せられ、「いばらの冠」をかぶせられ、「ユダヤ人の王さま」とからかわれ、「葦の棒」で頭をたたかれ、「つばきをかけ」られたと記されています。これは今日的に言うならば、悪質な「いじめ」であり、「〜ハラスメント」などに通じます。この受難のイエスのお姿を通して、この世界にある恐ろしい悪、罪、堕落の存在を知らされます。さらに、そういう苦難の中にある人たちの痛み、悲しみをイエスはすべて知っておられることをも示しているのです。

②イエスは「王」であると告白しますか

 兵士たちのイエスへの嘲笑の内容は「ユダヤ人の王」ということでのからかいでした。この1〜20節の間に「ユダヤ人の王」という表現が4回も出て来ます。また、2節でピラトがイエスに「あなたはユダヤ人の王ですか」という質問に対し、イエスは「そのとおりです」と言われました。この「そのとおりです」は直訳すると「あなたが言っています」となります。肯定的な返答と理解すれば、「あなたの言うとおりです」と理解できます。でももう一つの解釈として、「あなたがそのように言っています」と相手に投げ返す言葉として見ることもできます(新共同訳「それは、あなたが言っていることです」)。そうすると「本当のところ、あなた自身は、わたしを王と言うのか」という鋭い質問と取れます。あなたはいったいどう答えるでしょうか。