マルコの福音書 15:42ー47
礼拝メッセージ 2015.7.5 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,アリマタヤのヨセフに見るイエスに仕える行動
①彼は、限られた時間の中で (迅速に)行動しました
イエスが十字架に架かられたのは金曜日で、その日の午後3時ころに息を引き取られました。日没までわずかな時間しかありません。日が沈むと安息日が始まり、どんな作業も行うことができません。その上、申命記21:22−23「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その次第を次の日まで木に残しておいてはならない」という律法の規定もありました。アリマタヤのヨセフは、この短時間のうちに、遺体の引渡許可を取り、十字架から遺体を降ろし、当時の埋葬の習慣に従って葬りを行い、お墓に運び入れました。これは奉仕の心をよく表しています。かつて創世記に出て来た女性リベカもその手早い働きの中に、仕える者の姿勢を示しました。「彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き…。」(創世記24:20)
②彼は、勇気を持って (大胆に)行動しました
ヨセフの行動でやはり一番注目される行動は、ピラトにイエスのからだの下げ渡しを申し出たことでした。43節に「思い切って」とあります。この表現通り、それは勇気のいる、危険を冒す決意と実践でした。ペテロがイエスを三度否んだとき、「あのイエスといっしょにいましたね」「この人はあの仲間です」の周囲の声に身の危険を感じたことからすると、ヨセフの行動がどんなに危険な動きであったのか想像に難しくありません。エステル記で、モルデカイが王妃エステルに言ったあの言葉「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」(エステル4:14)のような声を、ヨセフは心の内側から聞いたのかもしれません。神に仕えることは、ある場合、大きな決意が求められることがあるのです。
③彼は、自分に (できる)最善のものを捧げて行動しました
高価なナルドの香油をイエスに注いだ女のように、ヨセフは「自分にできることをした」(マルコ14:8)ということでしょう。彼は、「岩を掘って造った自分の新しい墓」(マタイ27:60)をイエスのために使いました。また、遺体を包むための「亜麻布を買い」(47節)、遺体を降ろしたり、動かしたりするために、多くの人手を準備したのでしょう。彼にできる最善、最高のものをささげて、イエスに仕えたのです。
2,アリマタヤのヨセフに見るイエスに仕える動機と信仰
①それはイエスに対する (深い愛)から生まれた行動であったでしょう
マルコの福音書だけを見ると、ヨセフの奉仕ぶりに感謝と尊敬の念をいだきますが、ヨハネの福音書を見ると、彼にも弱さがあったことを知ることができます。彼はこう紹介されています。「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフ」(ヨハネ19:38)。その言葉を踏まえて、マルコの福音書を読むと、彼は確かにこの葬りの出来事まで何も記されていません。ということは、イエスの公生涯中(生前中)には、お役に立つことを何一つ行うことができなかったのかもしれません。福音書は彼の内的葛藤を一行も記してはいませんが、たぶん自分の信仰の不甲斐なさに情けない思いを持っていたでしょう。しかし、イエスが十字架に架かられたとき、愛する主のために、せめて最後の埋葬については私が引き受けようと、心に堅く誓ったのでありましょう。
②それは (神の国)を待ち望む思いから生まれた行動であったでしょう
ヨセフは「みずからも神の国を待ち望んでいた人」(43節)と書かれています。この表現は一般的には、敬虔な信仰を持ったユダヤ人を指すと言われます。しかしこの箇所の場合、もう一歩踏み込んで考えるべきでしょう。「時が満ち、神の国を近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)とイエスが宣教を始めて言われたことを彼自身も聞き、受け入れ、期待していたのです。「神の国」とは、この世の不正、不義、悪から、神ご自身が打ち立てられた愛と正義、平和によって治められる支配を表しています。イエスの十字架はその神の国を到来をすべての人に告げる出来事でした。
そして、この葬りの記述は、この後に続いていくイエスのご復活の序曲にもなっています。「イエスの納められる所をよく見ていた」(47節)とあるのは、イエスが確かに死なれ、葬られたことを証し、その後に起こる復活の確かさを明らかにするための布石でした。ヨセフも女たちも、それとは知らずにイエスの証し人として役割を実に果たしていたのです。