「ガリラヤでお会いできます」

マルコの福音書 16:1ー8

礼拝メッセージ 2015.7.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,女たちはイエスの復活が       (事実)であることを悟りました

①なぜ8節「恐ろしかったからである」で終わっているのでしょうか

 マルコの福音書の本来の本文は、16章8節で終わっています。9節以降の言葉は後代の追加であることがわかっています。どうしてそうなっているのかについて、いくつかの説があります。最初から意図的に8節で終わっているという人もいます。あるいは続きは書かれていたが何かの理由で紛失したと考える人、それからマルコは続きを書くつもりだったが何かの理由で中断せざるを得なかったと想像する人もあります。いずれにしても、今日、私たちが本来のものとして読めるマルコの福音書の復活記事は8節までなのです。不思議に思うことは、この唐突に思える終わりによって、むしろ現代的感覚では、復活の事実が、よりリアルなものとして印象づけられることです。空の墓と謎めいたメッセージを語る男、そして恐怖で逃げ出す女性たちがシンプルに描かれるのみで、復活のイエスは登場せず、見えません。ここに真実な証しが持つ迫力を感じます。

②女たちの目撃証言が強調されています

 ちょっとくどいように感じられるぐらいに、受難の記事に、イエスに従っていた女たちの名前が記されています。15:40では十字架で死なれた現場で、15:47では埋葬の場所で、そして16:1以降では、空っぽになったお墓で、彼女たちの名前が記され、「見た」とする言葉がそのあとに続いています。これらの記録が読者に向けられた確かな目撃証言であることを示しています。


2,女たちはイエスの復活の事実を身をもって      (経験)しました

①女たちの行動が強調されています(墓に来て、墓の中に入り、墓から出て)

 2節「墓に着いた」(直訳「墓に来る」)、5節「墓の中に入った」(直訳「墓の中に入って来て」)、8節「墓を出て」(直訳「墓から出て来て」)と書いてあり、女たちが墓に来て、入り、出るという一連の行動が、この1〜8節の骨組みになっています。彼女たちの行動を記すことで、実際にこれらの人たちが身をもって、復活という常識を打ち破る出来事に遭遇したことを明らかにしているのです。

②震え上がり、気が転倒していた女たち

 復活の事実を述べるにあたって、普通に考えれば、イエスに従っていた女たちがそのことを知ったとき、歓喜の叫びをあげて喜ぶことを予想するはずです。ところが、この8節までを読む限り、女たちは喜ぶどころか、恐れて、震え上がり、気が転倒していたというのです。これはどういうことなのでしょうか。この「震え上がって、気も転倒していた」という表現は、直訳すると「戦慄と忘我が彼女たちを捕らえていた」となり、あまりにも大きな恐怖と驚きに彼女たちが呑み込まれてしまったということでしょう。人が復活の事実に直面することは、神の顕現に出会った人たちのように、それ自体が人知をはるかに超えたことであるので、ただ恐ろしく感じるのでしょう(参照;ダニエル10:8−9)。私たちも神の臨在に接し、復活という測り知れない神秘を真正面から見させられたら、頭の中の常識が粉々に砕かれて、天地がひっくり返ったような激しい衝撃を受けることでしょう。


3,女たちはイエスの復活の事実が         (ガリラヤ)で経験できることを聞きました

①女たちの行動が強調されています(墓に来て、墓の中に入り、墓から出て)

 「ガリラヤでお会いできます」というメッセージは、ルカの福音書で「都(エルサレム)にとどまっていなさい」(ルカ24:49)という命令と矛盾するものではなく、むしろそれぞれに順番と意図があるのです。ガリラヤの地は、弟子たちの多くの者の出身地で、それぞれの生活の場でした。かつてはそこで、イエスから御声をかけられて、主に従い弟子となったのです。復活のイエスとそこで新たに出会い、経験することが彼らには必要なことでした。私たちも同じように、イエスと日常の歩みの中でお会いし、仕えていくことが求められているのです。

②「お弟子たちとペテロに」

 ここで「ペテロに」とひとりだけ名指しされています。三度ご自身を否み、裏切ったこの人を、イエスは見捨てず、あきらめず、先に行って待っていてくださるお方なのです。