マルコの福音書 16:9ー20
礼拝メッセージ 2015.7.19 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,復活して現れたイエスを弟子たちは、なかなか (信じなかった)のです
①イエスは復活されて、いくらかの人たちにそのお姿をあらわされました
この16章9〜20節と、短いの別の追加文とは、元々のマルコの福音書にはなかったもので、後代の追加された文章であることがわかっています。しかしほとんどの聖書本文に残されているのは、この中に他の福音書との調和が見られることと、2世紀頃の古いものであるからでしょう。初代教会に続く2世紀の教会のあり方を映し出していることからも貴重な内容であると言えるでしょう。
1〜8節と異なり、9節以降には、復活されたイエスは人々にそのお姿をあらわされたことが強調されています。まずマグダラのマリヤに現れ(参照;ヨハネ20:11−18)、次にエマオに向かうクレオパともう一人に現れ(参照;ルカ24:13−32)、そして最後に弟子たち十一人に現れました(ルカ24:33−43)。
②復活のイエスと出会った目撃者によって知らされた弟子たちは、なかなか信じませんでした
この9〜14節には、共通のパターンが見られます。まず最初に、復活のイエスが現れ、次にそれを目撃した人が弟子たちに知らせ、最後にそれを聞いても弟子たちは信じなかったというのです。「現れた」「知らせた」だが「信じなかった」という流れです。理想化される傾向のある初代教会ですが、実はここで明らかにされていることは、弟子たちはイエスによって責められているように、「不信仰」で「かたくなな心」(14節)で、すぐには復活されたイエスを信じなかったのです。彼らの姿は、現代の多くの人にも共通することではないでしょうか。でも失望で終わる必要はないのです。私たちには復活のイエスがともにおられるのです。
2,なかなか信じなかった弟子たちに復活のイエスは、 (福音宣教)を命じました
①不信仰でかたくなな心を持っていた弟子たちにイエスは宣教命令を託されました
15節の大宣教命令の言葉だけ取り出して理解するだけでは、ここに大切な命令が語られていると思うだけかもしれません。しかし、上記で見てきたように、これは繰り返し現れてその知らせを届けたにも関わらず、信じようとしなかった弟子たちに対するものであることを思うと、イエスの心の広さと愛の深さを感じます。宣教の命令は、今も私たちの信仰深さや能力に期待してのものではないことがわかります。むしろ信仰の弱い者さえ用いていかれるのが主のみわざなのです。
②「全世界に」「すべての造られた者に」という視点
イエスのお心の中にあった宣教は、最初から「全世界」を視野に入れているものでした。何の別け隔てもなく、「すべての造られた者」を対象にしていたのです。これが語られ、伝えられた時代は、まだまだキリストを信じる群れは少数者に過ぎませんでした。けれどもその与えられたビジョンはとてつもなく偉大なものでした。
3,福音宣教に出て行く中、弟子たちはともに働かれるイエスを知り、信じる者の (しるし)を経験しました
①弟子たちは信じる者のしるしを経験しました
しるしとは、新改訳聖書の脚注にあるように「証拠としての奇蹟」という意味です。17〜18節にある「悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば病人はいやされます」というのは奇蹟的なわざをあらわしています。ここにあることをそのままストレートに経験することもあるでしょう。けれども、これらのことは一つの例であると思います。超自然的であろうとなかろうと、過去から現在まで多くのクリスチャンたちが「信じる者のしるし」を経験してきました。もしも主を信じることがなければあり得なかったこと、もしも主のために奉仕していなければ経験できなかったことの一つ一つが「しるし」となるでしょう。
②弟子たちは主がともに働いておられることを経験しました
19節で主イエスは「天に上げられて神の右の座に着かれた」のですが、続く20節で明らかに言われていることは、イエスは天に昇られていなくなったのではなく、「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされ」ることです。そこに信仰生活の醍醐味と喜びがあります。