「喜びをもって祈る②」

ピリピ人への手紙 1:9ー11

礼拝メッセージ 2015.8.16 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,パウロは『真に              (すぐれたもの)』を求めて祈りました

①祈ることをやめていませんか

 喜びをテーマとしているこの手紙の中で、最初に気づかせてくれることは、祈ることの喜びであり、祈りは喜びの秘訣の第一であるということです。今夏もたくさんのセミの声を聞きましたが、玄関の階段のところで仰向けになって弱っているセミがいました。軽く触れてひっくり返してやると、羽を動かして、元気に木々の中に飛んで行きました。そのセミのように、私たちも、元気がない、喜びがない、活力が足りないと思い悩んでいるなら、祈りを通して神に触れていただき、正しい姿勢に戻していただく必要があるのかもしれません。毎日、祈る秘訣は、ちょっとの祈りを多くすることです。時間をとって祈ろうとすると、頭の中で数々の用事が思い起こされ後回しになっていき、結局、祈れなかったという結果になってしまいやすいのです。

②愛がますます豊かになることを祈っていますか

 では、どんなことを祈ればよいのでしょう。祈りというと、私たちはいろいろな自分の必要や、他の方々の願いに目を向けます。病気が治ること、人間関係が改善されること、経済的な必要が満たされることや、人々の救いや平安のためというのが多くの祈りの課題となっています。一方、パウロの祈りに目を向けると、私たちの捧げている祈りと違った面を見ることができます。彼の祈りは、人々の愛がますます豊かになることを祈っているのです。
 自分について、あるいは他の方々をとりなす祈りにおいて、愛が増し加わるようにと、あなたは祈っていますか。それは自分の願いよりも、愛という他への関心と思いが中心となる祈りです。また、その愛は感傷的で揺れ動きやすいものではなく、「真の知識とあらゆる識別力」による理性的なものです。新約聖書が語る愛は、全く意志的で神の御心を追求するものです。それは同時に、「真にすぐれたもの」を見極め、求めていくことにつながっています。


2,パウロは                (キリストの日)を待ち望んで祈りました

①純真で非難されることはありませんか

 「純真で非難されることがなく」とありますが、あなたは自分がそういう状態であると確信していますか。逆に、そういう人って本当にいるの?と疑問を持っているかもしれません。いろいろと失敗をして、神様の御心に反する言動や行いをしてしまう自分を思うとき、確かに難しいことだと考えてしまいます。でも、ここでパウロが祈っている意味は、ピリピの教会の人たちを罪の意識で落ち込ませることが目的だったわけではありません。また、終末の「キリストの日」を持ち出して、罪をやめるようにおどしているのでもありません。

②キリストの日を待ち望んでいますか

 「キリストの日」とは終末の再臨の日のことです。確かにそれは裁きの日でもありますが、同時に喜びと称賛があなたに届けられる日でもあります(Ⅰコリント4:5)。パウロは、罪によって倒れ、失望してうずくまっているのではなく、悔い改めて、立ち上がり、その日を待望して生きるように励ましているのです。それゆえ祈りは、長期的展望を私たちに与えます。その日が来たら、私たちは、まさか本当にこんなに嬉しく素晴らしい日が来るなんて想像していなかったと言って、嬉しさのあまり涙を流しながら、歓喜の叫びをあげることになるでしょう。


3,パウロは              (神の御栄え)が現されることを祈りました

①完全主義という偶像崇拝を知っていますか

 喜びをもって祈る祈りのゴールは、神の栄光です。神の栄光という言葉は、わかるようでわかりにくい表現ではないかと思います。ただ反対の極にあることと比較すると、少し理解しやくすくなるでしょう。神の栄光の反対とは、神以外の、たとえば人間の栄光とか、偶像の栄光となるでしょう。そして私たち人間の罪の中で最も厄介な罪が、その偶像崇拝なのです。教会に来たり、聖書を読んでいる人であれば、実際に偶像と呼ばれる他の神々を拝むことの間違いを犯すことはあまりないかもしれません。でも、知らず知らずのうちに、神の栄光ではなく、自分の栄光のために、自己崇拝のために、努めていることがあり得ます。完全主義的な面を持っている場合、自分の考えややり方が絶対化し、他の人をさばいたり、自分を責めたりしてしまいます。でもそれは、自分の思い込みや理想が神の御心にすり替わってしまっているのです。

②ただ神の栄光のために

 それでは、自分を偶像化することなく、神の御栄えのために仕えるにはどうすればよいのでしょうか。まず自分の取りたい方法や手段に固執し続けないこと、そして次に、結果は主に委ねるという心をしっかりと持つことでしょう。自分の思い通りにならないことがあっても、謙遜にそれを神の御心として受け取るのです。動機が、常に神の栄光に至ることを願っている人は、それゆえに心が広く自由です。