詩篇 1:1ー6
礼拝メッセージ 2015.8.30 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,幸いな人生への秘訣は、 (悪を拒み)避けることです
①人生が「道」にたとえられています
この聖書の言葉は、人生を「道」にたとえています。あなたは自分の人生を思うとき、どんな「道」としてイメージするでしょうか。平坦で、まっすぐに伸びていく道をイメージする人もあれば、でこぼこで曲がりくねった先の見えない道のように思う人もあるでしょう。この聖書の言葉が示す人生の道は、1本の道ではなく、いくらかの分かれ道があるような道が想定されているように思えます。悪者の道に進むのか、正しい者の道を選ぶのかは、ひとりひとりの判断に委ねられているのです。
②「歩まず」「立たず」「座に着かず」
幸いな人生を歩むために、この詩篇が最初に勧めていることは、3つの「〜ない」という否定面から、警告の言葉を語っています。この詩篇は、「知恵の詩篇」とされ、人生の教訓や生き方の知恵を語る詩篇として分類されています。最初から、「悪者のはかりごと」や「罪人の道」という言葉が書かれているように、この詩篇は現実世界の悪や罪、悲惨さ等をよく心得ています。人生というものを決して楽観視してはいないのです。最初の1節で、「歩まず」「立たず」「座に着かなかった」とあることから、罪は触れれば触れるほど、それに染まり、習慣化して行く恐ろしさを表しています。また、この「悪者」という表現は、犯罪を犯している人を必ずしも示している訳ではなく、新共同訳が訳しているように、「神に逆らう者」のことを指しています。神を認めず、否定し、神が作られたルールを平気で破り、神をあざける人たちのことを、「悪者」「罪人」「あざける者」として表しているのです。幸いな人生を送ろうとする人は、どんな悪も、罪も断固拒絶し、避けるように努めなければなりません。(テサロニケ第一5:22「悪はどんな悪でも避けなさい」)
2,幸いな人生への秘訣は、 (聖書)を読み、親しむことです
①「主の教え」(主のトーラー)とは?
この聖書の箇所が、2番目に語っている幸いの秘訣とは、積極的な勧めです。それは「主の教え」つまり聖書の言葉を喜びとし、絶えず味わい、思い起こし、心に留めることなのです。「主の教え」とは、原文では「主のトーラー」と記されており、それは「律法」のことです。でも、狭義の「律法」(創世記から申命記の五書)のことだけではなく、聖書の言葉全体を指しているのでしょう。「トーラー」という言葉は、元々、的を目掛けて矢を射る、という動詞「ヤーラー」という語から来ているそうです。聖書の言葉は、的はずれな歩みではなく、正しい方向へまっすぐに人を進ませる教えが書かれているという性質を表しています。
②聖書の言葉はあなたをとらえます
2節には「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」と書いています。聖書はそれほどに心に響く言葉であり、喜びと生きる力を与えるものなのです。「エレファントマン」(1980年)という映画で、奇形のからだゆえに人々の無理解と蔑みの中にいた青年ジョン・メリックが、ある時、The Lord is my shepherd. I shall not want.(主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません)と詩篇23篇全節を朗々と暗唱したシーンがありました。どんな状況に置かれていても、聖書の言葉があなたの心の中にあれば、喜びと慰めを受けることができ、平安を与えられることでしょう。あなたも詩篇を暗唱してはいかがでしょうか。
3,幸いな人生の結末は、 (実を結び)栄えることができるのです
①「水路のそばに植わった木のようだ」
聖書ではよく、人や、民を「木」にたとえています。預言者たちは、しばしば、ぶどうの木、オリーブ、いちじくの木など、実をならせるものをもって比喩的に教えました。「水路のそばに植わった」とありますが、言うまでもなく、植物の成長に欠かせないものが水です。水の流れのほとりに植えられた木は、葉を青々と生い茂らせ、やがて豊かに実を実らせるのです。
②「時が来ると実がなり」
実はすぐにはできません。実のなる「時」が来なくてはならないのです。幸せな人生には、実のなる「時」が備えられています。実を結ぶ季節が来るのです。それを信じて、悪を避け、主の教えを喜びとして生きるのです。永遠という長い時間の先には、完全な収穫の時も用意されています(ヨハネの黙示録22:1−2)。
最後に、この詩篇の最初の言葉に注目してください。「幸いなことよ」という言葉で始まっています。これは150ある詩篇全体の、あるいは聖書全体から来ている祝福の呼びかけです。それは神様からの祝福の祈りです。私たちひとりひとりに、幸あれ。さあ、わたしの祝福を受けなさい、と語っています。