「生きることはキリスト①」

ピリピ人への手紙 1:12ー19

礼拝メッセージ 2015.9.6 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,たとえ          (投獄)されていても、よろこびがあるという生き方があります

①今まで牢獄(拘束される)経験を味わった信仰者たちがいました

 1章12節からは、パウロの獄中からのリポートです。詳細は書かれていませんが、この記事を見ると、軟禁状態であったとしても、パウロは24時間体制で兵士たちによる監視を受け、プライバシーを全く奪われた状態の中で、この手紙を書いていたことがわかります。以前に、愛知県にある明治村を訪れたことがあります。その建物の中で、強く印象に残っているものの一つに、明治時代の監獄がありました(金沢と前橋にあったもの)。板張りの狭い空間の中にトイレとして使う桶だけが置いてあって、囚われ人はこの中でずっと過ごしたのだなと思うと、息苦しく感じたことを覚えています。聖書を読むと、正しい者であるのに、貶められたり、迫害されて、牢に入れられた人物のことが記されています。創世記の族長ヨセフは、兄弟たちの妬みからエジプトに奴隷として売られ、その家の管理を任されるようになりますが、誘惑を拒絶された主人の妻によって冤罪で監獄に入れられました。新約聖書にも、パウロだけではなく、ペテロや他の弟子たちの投獄の記事があります。私たちのグループの再洗礼派の人たちも過去多くの迫害を受けて、囚われの身となった人たちが大勢いました。

②厳しい状況にあってのみ示され、発見できる恵みがあります

 しかし、このパウロの場合もそうですが、生と死とが表裏一体のような厳しい状況に置かれた信仰者たちは、普通では感じ得ないものを感じ、見えていなかった霊的な現実、すなわち神が生きて確実に働いておられるということを見せられたのです。獄屋にいた、ヨセフに、エレミヤに、ペテロに、パウロに、神はご臨在を示され、ご自身の計画と約束を明らかに示されたのです。
 私たちは自分の置かれた苦しい現実や環境が、自分を閉じ込め、不自由にし、平安と喜びとを奪うように感じやすいのですが、今までの苦難を通った主にある人たちの歩みや姿勢を見ると、そういう見方を転換させられることになるでしょう。拘束され、不自由にされ、精神的に厳しく困難な状況の中において、むしろ神はその人とともにおられることを現され、その中で働いておられることを示されるのです。
 族長ヨセフを例にとって見ると、監獄に入れられている中で、繰り返されている表現が創世記39章21節と23節にあります。それは「主はヨセフとともにおられ」という言葉です。この言葉の意味することは2つあります。1つは、主は彼がどこに置かれようとも、「ともにおられる」という臨在を約束されたということです。2つ目に、監獄の長の心に働かれ、ヨセフのなすことをみな栄えさせてくれるということによって、確かに神がそこで働いておられることを示しています。こうした霊的な真理がわかると、パウロの持っていた喜びの原因をよく理解し、自らのこととして経験していくこともできるのです。


2,たとえ          (敵対)する人がいても、よろこびがあるという生き方があります

①パウロの投獄によって、人々はいろいろな反応を示しました

 パウロの投獄によって、まず影響を受けたのは、同じ信仰を持つ人たちであったでしょう。彼らは、パウロの信仰の大胆さと勇気に大いに励ましを受けました。パウロの入獄が、ある人たちの信仰を力づけ、鼓舞したのです。また同時に、パウロが囚われて、直接的に影響を受けた他の人たちがいました。それは彼を見張る兵士たちです。監視の役目を負う彼らは好むと好まざるとにかかわらず、パウロのそばにいなくてはなりません。これは全く逆の視点から言えば、とても危険なことだったと思うのです。なぜなら、パウロは「ペスト」のような男と呼ばれるぐらい、近くにいる人をいつの間にかクリスチャンにしてしまう人だったからです。ビル・ハイベルズ牧師が表現したように、まさに「感染力の強いクリスチャン」だったのです。
 クリスチャンや教会に来ておられる方々は、他の人たちに証しをしなくてはならないとプレッシャーを感じているかもしれません。もちろんそういう受け留め方もありますが、ここで確認したいことは、私たちは自分で考えている以上に、他の人たちに何らかの影響を与えているということです。相手の反応は肯定的なものか、否定的なものになるかは別として、教会に来ている人は、線香の香りではなく、キリストの香りを知らずと放っていることを覚えておいてください。

②パウロを苦しめようとしている人々の存在がありました

 パウロの投獄は、すべての人たちに好ましい影響と反応をもたらした訳ではありませんでした。彼のことを快く思わない人たち、敵対する人たちがいて、パウロを苦しめようとして、競争心からキリストを宣べ伝える人たちがいました。けれども、パウロの喜びは、悪意ある人たちの存在さえも、封じることのできないものだったのです。彼は神のなさる御業(「福音の前進」)に注目することで喜ぶことができたのです。あらゆることをご自身のご栄光のために用いることのできる神のご支配に信頼し、平安を持ってともに喜ぼうではありませんか。