「生きることはキリスト②」

ピリピ人への手紙 1:19ー26

礼拝メッセージ 2015.9.20 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,救いに至れるという          (希望)の確信がパウロにはありました

 喜びの気持ちは、たいてい長続きしないものです。かえって、悲しいことや、苦しいことはずっと続いているかのように感じやすいものです。でも、パウロは「そうです、今からも喜ぶことでしょう」(18節)と言って、過去の喜びにしがみつくことなく、「今」と「これから」の喜びに生きていたのです。そんな「永久保証」の喜びはどこで手に入れられるのでしょうか。本日の聖書箇所の中に、そのヒントが書かれています。それは「私は知っている」(19,25節)や「確信しています」(25節)という言葉です。喜ぶための理由は、何を基盤として歩み、確信して生きるかということです。
 まず、最初に記されている確信は、救いに至れるという希望の確信です。パウロは、自分のために祈ってくれている人たちがいること、そして何よりもキリストの御霊が自分をサポートしてくれていることを信じていました。その上で、何がこれから起ころうとも、神の御手のうちにある私には、すべてのことが自分の救いにつながっていくものであるとの希望を抱いていました。この希望がパウロの喜びを牽引していました。


2,わがうちにキリストがおられるという         (内住)の確信がパウロにはありました

 21節の「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」と言う力強い言葉に目を留めましょう。この文章は原文に動詞にあたる語がありません。ですから、「生きることキリスト、死ぬこと益」というダイレクトな表現です。パウロがこれを書いている時、裁判を受け、判決を待っているような状態だったのかもしれません。死の宣告が言い渡されるかもしれない、という緊迫した中で書いた言葉です。だから、これを読むすべての人たちへの挑戦的なアピールかもしれません。あなたにとって、生きることは、何であるのか。生きることの意味や、目的を、あなたは何に置いているのですか、という質問です。口で言ったり、書いたりしなくても、私たちの誰もが、心の中に、私にとっての生きることを持っているはずです。もしかすると、仕事と言う人もあるでしょうし、財産、趣味、家族、恋人、名誉などいろいろと考えられます。しかし、この箇所の問いの言葉は、続きがあります。「死ぬことも益です」と言えますか、という問いです。例えば、私にとって生きることは仕事です、と言った場合、死ぬことも益とは言えない。むしろ死ぬことは大損です、と言わなくてはならなくなります。ところが、死ぬことも益と言い得る唯一の答えがあるのです。それが「生きることはキリスト」です。
 「生きることはキリスト」という意味は、キリストを愛し、キリストを宣べ伝え、キリストに仕え、キリストに導かれる人生です。新共同訳の見出しには「わたしにとって生きるとはキリストを生きること」となっています。ガラテヤ人への手紙2:20で「キリストが私のうちに生きておられる」という言葉を思い出させます。ピリピ人への手紙1:20で「生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです」の言葉が、生も死も超えたような驚くべき確信をよく表しています。
 興味深いのは、この「あがめる」という言葉です。古い英語の訳では原語の意味に近い、magnify(マグニファイ 拡大する)という語で表されて来ました。キリストを拡大するとはどういうことでしょうか。W.ワーズビー師は、空の星を望遠鏡で見ることにたとえて説明しています。星は地上にいては小さく光って見えているだけですが、実際はとても大きな物体です。それをよく見るために、望遠鏡を使います。望遠鏡を使えば、肉眼で見るよりももっと大きくはっきりと見ることができるからです。キリストを信じている人たちも、望遠鏡のレンズのように、その身をもって、キリストの見えていない人々に、キリストを大きく見せる役割を受けているのです。


3,世を去ってもキリストとともにいるという      (永遠のいのち)の確信がパウロにはありました

 最後に見ておきたい、パウロにあった確信は、たとえ死んでも永遠のいのちを持って、キリストとともにいることができるという確信です。「世を去って」(21節)の言葉は、出発する、立ち去る、離れるという意味を持っています。この語は、兵隊たちによって用いられる時は、テントをたたんで、移動することを意味し、航海用語としては、綱を解いて船出することを意味しました。パウロにとって、死は恐ろしいものではなく、肉体の幕屋をたたんで、移動すること、あるいは船出するイメージで捉えられていたようです。出発して行く先は、キリストがおられるところであり、そこへ行けば、ともにいることができるとの思いがありました。死をも恐れぬ確信が、絶えざる喜びを与えていたのです。