ピリピ人への手紙 1:27ー30
礼拝メッセージ 2015.9.27 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,キリストの (福音)にふさわしく生活しよう
「生活しなさい」(27節)とは不思議な命令ではないでしょうか。誰でも、生きている限り、日々の生活をすでに営んでいるからです。ある日、自分の知らないどこかに連れて行かれて、「今日からここで生活しなさい」と言われたとしたら、そうか、これからこの土地で暮らしていけばいいのだな、と思って歩み出せるかもしれません。でも、場所も時間も何も変わらないのに、ただ「生活しなさい」と言われても、戸惑ってしまうばかりでしょう。さらに、どのように生活するかと言えば、「キリストの福音にふさわしく」とあって、これも理解の仕方によっては、かなり漠然とした感じで、ちょっと曖昧な印象を与えます。
最初の言葉から注目してみると、新改訳聖書の第二版では「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい」となっていましたが、第三版から、「ただ一つ。」と最初の言葉に句読点と「一つ」が追加され、区切られることによって、より強調の度合いが大きくなりました。これは、新共同訳聖書が同じ箇所を「ひたすら」という表現にしたのと同じように、原文が読者の注意を喚起していると解釈をして、それを表現した結果のようです。確かに、この27節から2章前半にかけて新しい話の内容に入っていきますし、パウロがピリピの教会の読者たちへ呼びかけたかった中心的なメッセージが、この「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」ということだったからでしょう。
札幌農学校に赴任したW.クラーク博士は、多くの決まりからなる校則を掲げず、「紳士たれ」(Be Gentleman!)という短い言葉をもって学校のルールに定めたことは有名です。それが紳士らしい振る舞いなのか、と生徒が自分で考えて判断させる意図があったのかもしれません。パウロのこの命令の言葉も、このことをすることは、「キリストの福音にふさわしい」ことなのか、それとも避けるべきことなのかを、この短い言葉から悟らせるためであったのかもしれません。
それに、この「生活しなさい」という語は、聖書の脚注に、別訳「御国の民の生活をしてください」とあるように、市民として生活するという意味が含まれています。ピリピの町は、かつてのローマ皇帝の名前が冠された植民都市で、市民生活者としての意識が高い地域だったそうです。市民という言葉を使うとき、そこには市民としての権利と自由、そしてそれに伴う当然果たすべき義務や、必ず負わなくてはならない責任ということを自覚させる響きがありました。
パウロは同じ言葉を使徒の働き23:1で語っています。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」この「(神の前に)生活して来ました」という言葉です。この言葉からもわかるように、この「生活する」は、健全な意味で誰かに見られていることを意識する生活なのです。同じ町に住む人たちに見られ、さらに神に信頼している人は、神の前に自分を置き、神に見られて生活し、与えられている自由や権利を行使し、課せられた義務を果たしていくわけです。この神に見られ、人々の前で生きることを前提にした歩みは、言わば証しの生活と言えるかもしれません。
2,キリストの福音にふさわしく、心を (一つ)にして、ともにしっかりと立ちましょう
「キリストの福音にふさわしく生活する」ことを実現するためのヒントは、この言葉の続きにあります。「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。」(27節後半〜28節前半)。「霊を一つにして」「心を一つにして」「ともに奮闘する」の言葉が明らかにしているように、福音にふさわしい生活とは、個人の修練や努力によって、ひとりで深めていくものではないのです。むしろ、みんなですることなのです。だから、こういうふうに言えるかもしれません。もしこの教会に来ている人で、信仰に堅く立っているひとりの人がいて、その人がひとりで信仰を熱心に持ち、ひとりで奉仕や伝道に励んでいても、それでは、ここで言われている、福音にふさわしく生きていることにはならないのです。あるいはそれが複数の人たちであっても、みんなバラバラに、それぞれで優れた能力を発揮して、立派な活動や奉仕を捧げることができていても、やはり「心を一つにして」の部分が欠けているのなら、キリストの福音にふさわしい実りをもたらすことはないのです。いつの時代にも、教会の「一致」こそが、教会の本来のあり方であることを確認しておきましょう。
3,キリストの福音のため (苦しみ)をも与えられることを理解し、受け入れよう
キリストの福音にふさわしい神の民の市民生活を送るとき、覚悟しておかなくてはならないことをパウロは記しました。それは、反対者の存在と、キリストに従う人たちが受ける苦難についてです。でも、この事実に恐れて、退くべきではありません。神が与えてくださる恵みは、キリストへの信仰だけではなく、キリストに従うときに直面する労苦や迫害です。それは悪魔や敵対者たちによる攻撃です。でも、すべては神の御手のうちにあることであり、同時に、同じような苦しみを通った聖徒たちがいることを覚えて、堅く信仰に立ちましょう。