ピリピ人への手紙 4:10ー23
礼拝メッセージ 2016.1.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
パウロはこの喜びの手紙、ピリピ人への手紙を終わるにあたり、喜びについて、別の角度から教えて締め括っています。それは、満たされるということです。主にある喜びの本質は、満足している状態と言い換えることができます。パウロはピリピの教会の贈り物によって支えられた感謝の思いを伝えつつも、ひとりひとりににとって主にある喜びの持続力がいかに大切なことであり、それが真の充足感を持って生きることにあることを教えて、彼らを励ましているのです。
1,満ち足りて生きている人は、神の (摂理)を確信しています
充足している思いというのは、現代の私たちの誰もが最も求めていることではないでしょうか。多くの人たちは、満足が得られない自分の状況にイライラしています。他から見れば何不自由ない暮らしを送っている人であったとしても、その人自身の内側は満たされずに苦しんでいることがあります。どうにかして満たされようとして、いろいろなことを試しますが満たされず、かえってひどい飢え渇きをもたらす結果となり、昂じた欲望のはけ口を求めて、罪の泥沼に落ち込んでしまっている人がいるのです。ヨハネの福音書4章の「サマリヤの女」はまさにその例です。井戸の水汲み場での話で、渇きという表現で語られていますが、彼女は絶えず満たされない心の疼きを抱えていたと思われます。イエスはこの女の真実を暴かれて言われました。「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。」(ヨハネ4:18)。次々と違う男性との恋に明け暮れていたこの人の心の渇きを、真に満たすことのできるのが何であるのかをイエスは明らかにされました。「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ4:14 参照エレミヤ2:13)。ピリピ書に目を転じると、獄中のパウロの思いは一言で言えば「私は満ち足りています」でした。パウロの言葉の中に満ち足りて生きるための秘訣が明らかにされています。
満たされない思いの問題の源は、神に対する信頼の欠如にあります。10節の言葉によると、パウロは獄中で確かに不自由を感じるような貧しい状態がある程度続いていました。悪魔はパウロに囁いたでしょう。おまえはひとりぼっちだ。誰もおまえのことなどかまってはいない、と。しかし、パウロは神のご摂理を信じていました。摂理は英語でprovidenceでギリシア語の動詞プロビデオーから来ています。ビデオ―は見るという意味で、プロは前とか先という接頭辞で、先を見ているという意味です。神は私たちの先のことを見ておられます。ですから最善を知っておられる神がちゃんと「その時」を備えておられることを信じることが、神の摂理やご計画に対する信頼ということになります。ピリピの教会から何も届かない状態にあって、パウロはそれを「機会がなかった」と書いたように、神の備えておられる時に至っていないと考えていました。しかし、ピリピの人たちからの使者エパフロデトが、贈り物を携えてパウロのもとに来た時、彼の喜びは大変大きなものとなりました。10節「よみがえって来た」は直訳すれば「花が開く」という言葉で、それはこの摂理を信じていたパウロの思いをよく表しています。
2,満ち足りて生きている人は、境遇に (左右)されないものを持っています
12節に「秘訣を心得ている」という表現は神秘的な儀式を行う密儀宗教の使う用語で、へたをすると誤解されかねない言葉でした。別の翻訳では「免許皆伝」と訳しています。言うなれば極意を会得したということでしょうか。でもそれは何か特別な儀式や経験を経なければ得られない類のものではありません。むしろ、ピリピ書でパウロがしばしば使う「考える」こと、つまりどういうふうに考えて信じるか、ということであると言えます。この12節では特に「知っている」という表現にそのことが表されています。
パウロの人生の歩みを考えると、使徒の働きや彼の書簡から分かることは、苦しみの多い歩みであったことです。では、どうしてそれに彼は耐え抜くことができたのでしょうか。またこのピリピ書では「満ち足りている」「喜んでいる」と証しできたのでしょうか。彼がこの世での目に見える現実だけに心奪われて、人生の歳月を重ねていなかったからではないかと思います。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:17−18)とパウロは述べているとおり、彼は現実をよく理解し見つつも、別の視点、霊的な目を持っていました。主を求め、信頼している私たちにもその目は与えられているのです。
3,満ち足りて生きている人は、神の (力)によって強められています
13節をアンプリファイド訳(詳訳)は「私は、私を強くするキリストにあって、すべてのことのための力を持っています。[わたしは内的な力を私の中に注ぎ込む方を通して、どんなことにも準備ができており、どんなことにも耐えられます。…]」と訳しています。それは物理的な力ではもちろんなく、霊的な(スピリチュアルな)力です。パウロが言う「自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」と言うことと同じです(コロサイ1:29、参照;イザヤ書40:28−31)。私たちにその自覚はなくとも、驚くべきキリストの力が、実に信じる者のうちに注ぎ込まれているのです。D.M.ロイドジョンズは「力を得る秘訣は、キリストの内にある私たちに何が可能なのかを新約聖書の中に見出し、それを習得することである。なすべきことは、キリストのもとに行くことである。」(「霊的スランプ」聖書図書刊行会)と述べ、この秘訣を「霊的な輸血」であると言っています。