ピリピ人への手紙 4:10ー23
礼拝メッセージ 2016.1.10 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神は、あなたの (必要)を満たしてくださいます
15節に「物をやりとり」、17節に「収支を償わせて」と言う言葉がありますが、これはギリシア語ではよく知られている「ロゴス」(普通「ことば」と訳される)という単語です。このロゴスには広い意味があり、商業用語として使うときは「勘定」(accounts)「決算」「決済」等の意味になります。ピリピ人への手紙の終わりは、とても具体的、実際的な事柄が取り扱われています。それは贈り物が届かなくて困窮していたことや、それがやっと届けられて嬉しいという感謝の言葉です。物のやりとりとか、経済的なこと、お金のこと、というのは、何か「聖書」と呼ばれる「聖なる書物」に相応しくないような印象を持つ方がいるかもしれませんが、福音書を読むとイエス様もお金に関する喩え話をいくつもお話しになっています。
それは私たちを造られた神が、私たちの日常的なこと、日々の暮らし全般にわたって、深い関心と御心とをお持ちであることを示しているのです。パウロのこの贈り物への感謝の言葉を見ると、19節に「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」と断言しています。神は私たちの日々の生活をよく知っておられ、またこれからの計画や歩みについても御心に留めておられるのです。この「必要」という言葉は第一義的には「金銭」のことでしょうが、それだけでなく、精神的必要、健康面の必要、人との関わりにおける必要など、すべてにわたって神は見ておられ、その「必要」を満たしてくださることを言っています。
2,神は、あなたを (聖徒)として見ておられます
さて、終わりのあいさつ部分を見ると、21節と22節に「聖徒」という言葉が使われています。「聖徒のひとりひとりに」「聖徒たち全員が」となっています。パウロは手紙の中でしばしば、クリスチャンのことを「聖徒」と呼んでいます。「聖徒」とは直訳すると「聖なる者」(たち)、「聖い者」(たち)です。カトリック教会などでは、ある基準に達した人たちを「セント(saint)誰々」と呼んで「聖人」とか「福者」と呼んで尊びます。けれども聖書自体はこういうレベルにあるからこの人は「聖なる者」であるなどとは書いていません。むしろ、キリストを信じて教会に加わり、信仰生活を送っているすべての人たちを「聖徒」と呼んでいます。
私たちは、ともすると自分の日々の行いや、心のうちにあることをよく知っていますから、自分などはとても「聖徒」と呼ばれるような者ではないと謙遜します。でも聖い者であるかどうかは、私たち自身が決めることではなく、また多数決や委員会で決める訳でもありません。神ご自身が、そして主イエスが、お決めになることなのです。「聖なる者」とされていることは、神のために聖別された存在であることを意味しています。これは神のもの、神に属するものとされているということでもあります。見方を変えれば、神にとってかけがえのない大切な存在として見られている、と言うことができると思います。
ノートルダム清心学園のシスター渡辺和子さんが、昨年「幸せはあなたの心が決める」(PHP研究所)という本を出されました。その中に「(自分)自身を「罪人」にして、自分以外の人を「聖人」にしてはいないか。 神以外のものは、すべて不完全なものだから、人に腹を立てるのは、分際をこえた思い上がり。」(p.17)と書いていました。私たちは自分が「聖徒」とされていることを認めないで、「私は罪人だから」と自分には甘く、他の人には「聖徒」であるべきだと考えて、その人の間違いや失敗には厳しく、その間違いを決して許さないというのです。これは確かに自分の中にこういう身勝手な誤解があることに気づかされて、ハッとさせられた言葉でした。ローマ人への手紙でパウロはこう言っています。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(8:33−34)。
3,神は、あなたを聖徒の (交わり)へと招いておられます
21節と22節には「よろしく伝えてください」「よろしくと言っています」とあります。「よろしく」というのは日本語では好意を示すあいさつの言葉ですが、この日本語の「よろしく」と言う表現は元々、「ヨラシ」と言う語から生まれたそうです。「ヨラシ」とは近寄ることです。つまり「よろしく」とは、好意をもって近寄りたい気持ちを表しています。日本語の「よろしく」は聖書の記述にピッタリです。地理的距離は離れていても「近寄って」互いの愛を分かち合いたいという思いをパウロもピリピの教会の人たちも互いに持っていました。もちろんパウロのそばにいた他のクリスチャンたちも同じでした。
ピリピ書は「喜びの手紙」として書かれていたことを見てきましたが、この書が最後の最後に、聖徒の交わりという喜びで締めくくられていることに、大きな意義を感じます。主にあって喜ぶということは、一人のうちでうれしい気持ちを持ち続けるような自己満足で終わるものではなく、主をともに喜び、みんなで助け合い、持てるものを捧げつつ、喜びの輪を際限なく広げていくことが、この手紙の終わりなき喜びを示す結論となっているのです。