「キリストとは誰か?」

マルコ福音書 12:35-37

礼拝メッセージ 2016.1.17 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


メシアへの期待

 ここでの教えの主題はキリスト(油注がれた者・メシア)です。メシアとは何なのでしょう?古代イスラエルでは,神殿で働く祭司や政治権力の頂点に立つ王の就任時に彼らに油を注ぐ儀式を行い,任職の証しました。後にイスラエルは他国の支配下に置かれていきますが,その支配から解放する神からの指導者(人間)を待ち望むようになりました。イエスが生まれる時代にはイスラエルはローマに支配されていましたが,この救い主(解放者)としてのメシア(キリスト)は古代イスラエルの王朝であるダビデ朝の子孫から生まれると言う考えが起こってきたのです。


イエスの答え

 ここでは、イエスはこの考え方を是とはしていません。イエスは詩篇110:1の聖書箇所を引用して,キリストがダビデ王朝の子孫と言う考えに反論をするために,イエスは以下のポイントでこの詩を、王朝の祖先であるダビデはキリストを主人として理解していると解釈します。イエスの主張は明快です。面白いのは人々の反応です。このイエスの主張を喜んでいるのです。


ダビデの系図

 このイエスの主張を考える上で,どうしても避けられない事があります。それは新約聖書が,イエスがキリスト(救い主)であることの証明として,キリストであるイエスはダビデの子孫であると言っていることです。私たちは、このような聖書の系図とイエス自身の言葉とをどのように考えるべきでしょうか? 第1に,系図そのものが残される意図です。一般的に系図を用いることの意味は,過去の権力を用いて現在の力や正統性を誇示することにあります。このような考え方に対してイエスは「否」と言っているのでしょう。今ここにいる人々が苦しみから解放されること(救い),人々が神の意思に従って生き互いに助け合うことは,何ら過去の権力者の栄光や威光とは関係ありません。時には,過去の栄光が現在の救済の邪魔をします。私たちがキリストに関する系図を読むときに,そのような過去を誇示する系図ではないことを、少なくとも知っておくべきです。同時に、私たちはキリストをその出生だけでありがたがるのも止めなければならないのです。もしイエスが尊敬されるべきであるとするならば,それはイエスが人と神に仕えたというイエス自身の考え方,それを行った生き方にしかないのです。


神と人に仕える

 第2の点として,人々の反応を挙げたいと思います。キリスト(メシア)はダビデの子孫である必要はない,そのような考え方を喜んで受け入れています。ダビデは古代イスラエル王朝の栄光の徴でした。外国勢力を打ち破って人々を解放し,神への信仰者の模範として数えられています。しかし同時に,イスラエルに厳しい労働や重い税金を課し,対外的な戦争を行い,それまで存在していた人々の自由を奪った現実もありました。人々を外国の支配から解放した対価として,人々に対して王への服従を要求したのです。そのような意味では,ダビデはまだ真の解放者にはなりきれませんでした。その子ソロモンは神殿を建て国力を増しましたが,やはり人々を圧迫した様子が聖書は記されています。後のダビデ王朝の王たちも似たり寄ったりです。つまり,真の解放者である待望のキリストはそのようなダビデ王朝の支配者たちとは違った者のはずだ,そのように人々は望んだのです。
 イエスへのキリスト告白は,ダビデの系図に寄りかかることに本質があるのではありません。イエスが人と神に仕え,人々を苦しみから解き放とうとしたこと,そのイエスのことばに信頼を置き,従い,その言葉を実現させようとすることに意味があります。イエスの言葉はそのようなことを思い起こさせてくれます。キリスト者である者は,キリストを信じているから偉いのではありません。キリスト者に価値があるとするならば,キリスト者自身が人と神に仕える、この点だけです。それは、イエス自身が人と神に仕えた,そこに自らの本質を置いたからです。