ヨハネの福音書 15:1ー11
礼拝メッセージ 2016.1.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,キリストはまことのぶどうの (木)です
「わたしは〜です」という自己紹介
他の人に対して、自己紹介をすることがあります。私は何々(名前)で、どこに住んでいるとか、こういう仕事をしている者です、というように。その置かれたシチュエーションに合わせて、自分のことについての紹介内容も当然変わります。
イエス・キリストが、ご自分を「ナザレに住んでいるイエスという者です」というような一般的な自己紹介をしたセリフは聖書の中に記されていません。むしろ、いくらか謎めいた比喩的な表現で、自己紹介をなさっています。ヨハネの福音書によると、イエス・キリストは「わたしは〜です」と7つの表現でご自身について語ったことが記されています。「わたしはいのちのパンです」(6章)、「わたしは世の光です」(8章)、「わたしは羊の門です」(10章)、「わたしは良い羊飼いです」(10章)、「わたしはよみがえりです。いのちです」(11章)、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」(14章)、そして「わたしはまことのぶどうの木です」(15章)の合計7つです。
「わたしはまことのぶどうの木」
このうち、「良い羊飼い」とこの「まことのぶどうの木」だけが、「良い」とか「まことの」という言葉が付いています。このように表現される背景には、「良くない羊飼い」つまり「悪い羊飼い」があり、「まことでない」「本物ではない」「偽の、あるいは見せかけのぶどうの木」があるということでしょう。これを自己紹介の感覚で聞くと(もちろん直接聞いたのは、数年ともに過ごした弟子たちですが)、この15章1節は、「わたしは間違いなく、本物の、真正なぶどうの木です。偽物のぶどうの木ではありません。あなたがたは注意して、よく悟りなさい。」という言外のお気持ちが読み取れると思うのです。
まことのぶどうの木につながるとは?
あなたが土台にして生きているもの、あなたの人生の基盤になるようなことに関して、それは目には見えなくても「まことの」「真実な」ものですか、人生というかけがえのない大切な時間を委ねても良いようなものですか、と聖書は語りかけています。
残念ながら、多くの場合、心から信頼して、そこに繋がり、安心感をもって歩いていけるような生き方に関することについて、ほとんどの場合、だれも答えを与えてくれません。しかしだれもが生きる中心となるものについて、聖書は古くから、それがイエス・キリストであると伝えています。この方こそが、私たちを愛し、私たちを救い導くために、地上生活を送ってくださり、どう生きたら良いかを教えてくださいました。その上、もっとも大切な救いのために、私たちの大きな課題である罪のために、受けなければならない報いの罰を、身代わりに引き受けて十字架刑で死んでくださったのです。そして復活されて、その救いが確かなものであることを明らかにしてくださいました。
2,私たちはぶどうの木につながる (枝)です
「わたしにとどまりなさい」
ぶどうの木のたとえを見ていくと「とどまりなさい」という言葉が繰り返されていますが、この言葉を読むたびに私は不思議な気がしてなりませんでした。というのは、ぶどうの木を想像してみてください。その枝、あるいは蔓が、もうこのぶどうの木につながっているのが嫌になったと思って、自分でその木から「えいやっ」と切り離してどこかへ行けるでしょうか。もちろん、それはできません。農夫がその枝を切り離さないかぎり、あるいは枯れていって下に落ちないかぎり、ぶどうの木にとどまり続けます。だから、もしかすると、ここにはイエスの独特のユーモアが隠されているのかもしれません。したがって、「とどまれ」というのは、流れてくる水分、養分をしっかりと受けて、枝として健やかに成長していくことを表しています。ここに信仰というものが、ある程度、受身的、受動的性質のものであることに気づかせてくれます。
ぶどうの木の栽培は一般に手間がかかるとされています。イエスがこの話をされたとき、これを聞いていた当時のお弟子たちも、よく知っていたと思います。つまり「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われた時に、あなたがたをお世話し、実を実らせるために、農夫である神様がいつもせっせと働いています、ということなのです。
信仰は、その農夫である神様のお世話を信頼して受け入れ、豊かな養分を送ってくださるイエス・キリストにつながり、すがるということなのです。それは人格的な結びつきでもあるのです。
多くの実を結ぶために
ここで言われている「多く実を結ぶ」ためのヒントは、「〜の中に」という原文で15回も繰り返されている言葉にあると思います。「〜の中に」のほとんどは、「わたしの中に」か「わたしの愛の中に」という言葉になっています。イエス・キリストというぶどうの木の中とは、どこでしょうか。私は、キリストを信じてつながっている人たちの集まり、つまり、キリスト教会であると思うのです。旧約聖書を見ると、かつてはイスラエル民族が「ぶどうの木」に喩えられてきました。しかしこの今の時代には、イエス・キリストを通して、神に信頼する集いである、キリスト教会に加わることなのです。どの国の人であっても、キリストのぶどうの木にとどまることはできるのです。まことのぶどうの木であるキリストにあなたもつながり、とどまりませんか。そして豊かな実を結ぶ歩みに入りませんか。