「私たちの病を背負うイエス・キリスト」

マタイの福音書 8:14ー17

礼拝メッセージ 2016.1.31 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,主イエスは私たちの苦しみや痛みを       (知って)いてくださいます

 ペテロの家はカペナウムにあり、イエス一行のガリラヤ湖周辺での宣教旅行において、時々立ち寄れる良き場所であったでしょう。イエスと弟子たちがペテロの家に入ってみると、彼のしゅうとめが熱病で寝込んでいます。風邪かインフルエンザなのか、あるいはもっと恐ろしい病気であったのか、それはわかりません。しかし、原文ではこの「床に着いている」という言葉は直訳すると「倒れていた」となっているので、倒れ込むほどの重篤な病気の中にいたのかもしれません。
 本日の聖書箇所14〜16節までのところで、「彼」すなわち「イエス」が「〜をした」という動詞表現が4つ出ていることに気づきました。それは「彼は見た」「彼は触れた」「彼は追い出した」「彼は癒やした」の4つです。この言葉がイエスのなさったことの働きを明らかにしています。
 まず第一に、イエスはご覧になった、ということです。宣教旅行の働きの中、主が「ペテロよ、あなたの家に入ろう」と言われたのか、それともペテロが「先生、少し私の家で休んでいってください」と招いたのかもしれません。ところが、折り悪く、しゅうとめが病で寝込んでしまっていました。ペテロはこう言ったかもしれません。「先生、せっかく来ていただきましたが、しゅうとめが病気で何もお構いできませんので、さあ、皆とともに家を出ましょう」と。当然、イエスは「待ちなさい」と言われて、熱病で苦しんでいる彼女のところへ近づい行ったのです。
 この出来事に続く16節を見れば、家の外側にも多くの人々が病や苦しみを抱えて生きていることが主イエスの目に映っていました。苦しみや病は、内にも外にも存在します。そしてこれが罪あるこの世の厳しい現実であり、そのことからイエスは決して目を背けることなく、直視されました。しかもそれは現実の厳しさを見ていただけではなく、その中で苦しみつつ生きている人たちを、イエスは愛の眼差しをもって見つめておられたのです。
 聖書がその最初から語っている神のご性質の一つは、神そしてキリストは、すべてをご覧になっているお方であるということです。見ておられる神、常に眼差しをこちらへ向けておられる方なのです。創世記16:13で、女奴隷ハガルが身重で荒野に逃げている途中、神からの御声を聞き、彼女は神を「あなたは『エル・ロイ』と呼んだ」と書かれています。「エル・ロイ」とは、ご覧になる神、という意味です。あるいは創世記22:14でアブラハムがその子イサクをささげる場面で、その場所を「アドナイ・イルエ」と名づけています。この「アドナイ・イルエ」も主は見ておられる、という意味です。これらのことからも伺い知れるように、ただ眼で見ているという意味ではなく、慈しみの眼差しをもって、心配して見てくださっているという意味なのです。私たちの苦しみ、痛みを、イエスは知っていてくださるのです。


2,主イエスは苦しむ私たちのそばに       (近づき)触れてくださいます

 さて、第二にイエスは「触れた」と書いてあります。熱病で苦しむペテロのしゅうとめの手に触れられました。このことは、この話の置かれた文脈で見ると非常に興味深いことに気づきます。というのは、この直前の記事8:5〜13を見ると、百人隊長の中風のしもべをイエスは癒やされましたが、その奇跡の場合、直接しもべのところへ行かず、触れることもなしに、遠く離れた場所にあって、病気を直されたのでした。あえて「手にさわられた」ことの行動の中に、主がその心の思いを表されたメッセージを読み取ることができるように思います。
 「触れる」ことは言葉以上の関わり、つながり、そこから来る安心感を与えてくれるものです。スキンシップによって、子どもは親からの愛情を体で感じて受け取ることができます。イエスはしばしば弟子たちに言葉をもって「恐れるな」「しっかりしなさい」「わたしはここにいる」と語りかけられていますが、その言葉と同様の力強い励ましを、ペテロのしゅうとめはイエスに触れていただくことで、しっかりと受け取ることができたでしょう。彼女はイエスが苦しむ私のそばにいてくださるお方であることを確かに理解できたと思います。ご存知のようにマタイの福音書の中でイエスが語られた最重要メッセージは「わたしはあなたとともにいます」「神は私たちとともにおられる」、すなわち「インマヌエル」という御言葉でした。


3,主イエスは私たちの病を         (背負って)くださいます

 17節にイザヤ書53章の言葉が引用され、これらイエスの宣教の働きが預言の成就であることが明らかにされます。第一に注目したいことは、イザヤ書の言葉を引用することで「私たちのわずらい」「私たちの病」というように「私たちの」こととして受け取るように、福音書記者が聖霊を通して促していることです。イエス・キリストは確かに歴史上の人物ですが、遠い昔に生きた過去の人ではありません。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)と書かれているとおり、変わることのない永遠に生きておられるお方です。今も生きて、あなたのうちに働いておられる、あなたの主です。
 第二に、イザヤ書53章で語られたメシア預言においては、その言葉の続きがあり、「わずらい」も「病」も、「そむきの罪」という根源的な問題を示していることです。そして私たちが病気で苦しんだり、孤独に悩んだりいるとき、それはすべてイエスご自身も、ともに苦しんでくださっていると考えられることです。なぜなら、私たちはイエスの中におり、この方の中に生きているのですから。私たちの、わずらい、病を身に引き受け、背負ってくださる方、それがイエスであり、主のあわれみです。あわれみは英語でコンパッションですが、その意味はcom「ともに」と、passion「苦しむ」です。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(イザヤ書63:9)。イエスは十字架の上で私たちの苦しみの根本である罪の苦しみを背負ってくださったのです。