コリント人への手紙 第一 1:10ー17
礼拝メッセージ 2016.2.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,仲間割れ、分裂、争いは起こりやすいものです
どんなグループでも結束して進むことが最も大事なことだと思いますが、なかなかそう行かない現実があります。夫婦や家庭であれ、会社や地域のサークルでも、人が集まる時に、しばしば経験することは、そこに仲違いや争いが起こったりします。この聖書箇所では、教会の中に仲間割れが起こっていたと書かれています。コリント教会は、賜物豊かな人々が集まっていた教会で、おそらくそうした独特の個性同士が調和できず、ぶつかり合いを生じていたのかもしれません。12節で「私はパウロにつく」また「アポロに」「ケパに」「キリストに」というふうに分かれていたと書かれています。原文でも「私は」、「私は」、と繰り返され、ギリシア語で「私」は「エゴー」という単語ですから、まさにエゴのぶつかり合いの様相だったのでしょう。よく言われる分析は、パウロにつくと云う人たちは、パウロの語る福音を誤解して無律法主義を主張する人たち、アポロにつくと云う人たちは彼の雄弁さや知恵の言葉に心酔している説教愛聴家、ケパとはペテロのことで十二弟子の筆頭のペテロを担ぎ上げるユダヤ人グループ、キリストにつくというのは自分たちこそ純粋にキリストに直接従っているという神秘主義的傾向の人たち等とイメージされています。
しかし、これは実に生々しい現実として、教会の中で起こりがちなことだと思います。私たちのうちで神様ではなく、ひとりの指導者を個人崇拝のような強い思い持ち続ける時、ここで語られているコリント教会の轍を踏んでしまうことになります。また、今日、教会はそれぞれの歴史的伝統の流れゆえに、いろいろなグループに分かれていることも、それにひどく固執してしまうならば、その危険性があるでしょう。私はルターに、私はカルヴァンに、私はウェスレーに、私はメノーに、ということです。祭り上げられている当の本人は、実際、主があがめられることだけを願ったに違いないと思います。たとえばルターは、自分の「ドイツ語著作全集」の序文でこう書きました。「私の切に願っていることは、私の書物がことごとく捨てられて、消滅してしまうことである」(ルター研究所編「ルター著作選集」p.629教文館)。
2,だれの名前のもとに私たちは歩んでいるのでしょうか
しかし、ここでパウロが強調していることは、「私たちの主イエス・キリスト」というお方です。この全く同じ表現が、2,7,8,9,10節と5回繰り返されています。私たちを結びつけているのは、パウロじゃない、アポロじゃない、その他のだれでもない、私たちの主は、イエス・キリストただお一人ではないのか、という念押しの言葉です。よく見ると、この10〜17節は、いろいろな人の名前が出て来ています。クロエ、パウロ、アポロ、ケパ、クリスポ、ガイオ、ステパナというように。そして10,13,15節に「名前」という言葉もあります。実に「名前」ということが強調されています。いったいだれの名のもとに、あなたがたは集まっているのですか、あるいは、どの名前に基いて歩んでいるのですか、と問うています。さらに、パウロが語気を強めて語るのは、あなたがたはイエス・キリストの名前でバプテスマ(洗礼)を受けたのではないですか、ということです。どの人によって洗礼を受けたのかは大した問題ではないと言われています。なぜなら、その洗礼を授けた牧師の名前で洗礼を受けた人はだれもいないからです。すべての人が主イエスの名前のもとに洗礼を受けているはずです。ローマ人への手紙6:3に「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」と書かれています。キリストの十字架の死にあずかり、死から復活のいのちへと進む生き方を、洗礼という象徴的な礼典を通して、公に告白したという信仰の根本を見つめ直しなさいと指摘しているのです。個人として、あるいはグループとして、私たちは誰の名前のもとに努力して生きているのか、働いているのか、あるいは痛むからだや心を抱えて、どなたの名前に基いて忍耐するのか、ということを問うてみるように、この聖書箇所は促しているのでしょう。
3,同じことを語る「協同体」として
10節に「どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」と書いています。この終わりの「完全に保ってください」とは、漁師の網を「繕う」「修繕する」の意味でも使われている言葉です。ですから、パウロはここで、分断されている交わりを修繕し、回復されることを言っているのです。そのためにどうしたら良いか、その心得は「みなが一致する」ということです。でもこれもそのままの意味は「みなが同じことを語る」ということです。「同じことを語り」、共有することの中に、その道筋が見えてきます。「同じこと」とは「主イエス・キリスト」です。またキリストを通して神がなされた御業です。もしかするとパウロの脳裏にあったのはペンテコステの出来事だったでしょう。使徒の働き2章に、エルサレムでいろいろな国の人たちが集まっていましたが、聖霊が彼らに臨んだ時、それぞれの国ことばでしたが、同じこと、同じ内容のことを語りました。「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」(使徒2:11)。でも、それがキリスト教会の始まりとなり、教会の本質でもありました。旧約聖書にはそれと反対の出来事、バベルの塔の話があります。一つの言葉しかなかったのに、神にさばかれ、互いに言葉が通じなくなったのです。人々が争い、仲間割れし、分裂する傾向は、このベベルの塔以降、有史以前から、人の心の中にその傾向が存在するようになったと言えるでしょう。だからこそ真のコミュニケーション回復の共同体として、「私たちの主」と呼んで、同じ「イエス・キリスト」を宣べ伝え、同じ心、同じ思いをもって同じことを語る群れとして、神は私たちをお立てになったのです。