コリント人への手紙 第一 1:18ー31
礼拝メッセージ 2016.2.21 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神の知恵は人間の知恵をむなしくします(18−25節)
一読して気づくことは、この聖書箇所には「知恵」という言葉がたくさん出て来ます。「知恵」はギリシア語ではソフィアという単語です。古代ギリシアにはソフィストと呼ばれる知恵者たちがいました。彼らの役割は、教育によって社会的に有能な人物を生み出すことにありました。特に民主主義的な国家において、人々を説得し政治や社会を動かす人物を育てることは重要なこととされていました。22節でギリシア人は知恵を追求するとある通りです。
パウロはそういうギリシアの中心地、アテネで、福音を語りました(使徒の働き17章)。アテネの人々は、新しい教えや考え方を聞くことを楽しみとしていたので、パウロがどんな新しい知識を説得力をもって語るのかを期待していました。けれども、多くの人たちはパウロの語るメッセージに対して関心を示しませんでした。「ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った」(使徒17:32)だけでした。聴衆はソフィストのコンテスト(弁論大会)の審査委員のような感覚だったのでしょう。
当然のことですが、パウロにとっては、知恵ある言葉かどうか、興味を惹く話かどうか等、そんなことはどうでも良いことでした。パウロはその時の苦い経験を通して、知恵を追求するギリシア人の傾向をコリント教会の分裂や混乱の一要因と見ていました。彼らが「私はパウロに、アポロに、ケパに」という知恵コンテスト的な基準で指導者選びや評価をしていたからです。そういうコリント教会に向けてパウロは真っ向から勝負に挑むようにして「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(18節)と宣言します。あなたがたの知恵から言えば、神のご計画と救いの働きは愚かなことかもしれません、けれども、それこそが神の知恵と力です、とパウロは言っています。
実にパウロが聖霊を通して示している、神の知恵vs人間の知恵についての言明は、価値の大逆転、人生をひっくり返すような強い言葉です。19節「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする」(イザヤ29:14からの引用)とは、人間の力で得られるような知恵とは全く異なり、そうした知識が無効になるようなものなのです。パウロは何も学問や教養が不要とは言っているのではありません。しかし、どんなに知恵を追求し学問を積んだとしても、人間の知恵からは神を知ることも、救われることも決してできないことを明らかにしているのです。
「キリストの十字架」(17節)、「十字架のことば」(18節)、「十字架につけられたキリスト」(23節)と、十字架に集中するように促しています。なぜなら、謀反人や極悪犯罪者の刑罰である十字架にキリストがかかられましたが、このお方こそが、私たちに対する神の愛といのちを与える方だからです。
神の御子キリストが十字架につけられたことは、この方が苦しみと呪いを受けてくださったことを表します。ある説教者が、キリストは世界で一番損をした人です、と書いていましたが、その通りです。苦しんだり、損をしたりすることは、この世ではたいへん愚かなことでしょう。また、ユダヤ人から見ても、木につるされた者は呪われた者との理解がありましたから、神に呪われた、忌むべき存在となられたということです(ガラテヤ3:13)。しかし、この十字架につけられた方を主と呼び、従う者に、神は恵みと救いを与えられるのです。18節と24節にあるように、そこには驚くべき「神の力」が働くのです。この「力」とはダイナマイトの語源、デュナミスという語です。
2,神の召しは人間の誇りを退けます(26−31節)
さらにパウロは人間の知恵から来る問題を、自分自身を誇る、あるいはだれか他人を賞賛することでその人を誇らせることになってしまうことを指摘します。それで「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい」(26節)と、「神の召し」「神の選び」ということに目を向けるように言われます。27−28節にあるように、教会には、知者、権力者、身分の高い者がいました。でも大勢の人たちはそうではなかったようです。
「召し」という言葉は、現代的に表現すると「呼ぶ」ということです。今多くの方々が携帯電話やスマホを持っています。礼拝中に電源を消し忘れたり、マナーモードにしていないと、電話が鳴り、礼拝への集中力が途切れてしまうかもしれません。神からの呼びかけも、似たところがあると思います。人生において私たちは何かに没頭しています。勉強や仕事、家族のこと等、でも突然電話がかかってきます。集中が途切れて不機嫌になるかもしれません。それは特別な神からの電話です。「わたしについてきなさい」「わたしはあなたを愛して十字架にかかった」と。でも選ばれたのは、あなたの知恵深さや強さのゆえではありません。神の一恵みです。これらの箇所には、意識的に「神」あるいは「わたし」という表現で、神が主語になっている文章が多く書かれています(19,20,21,27,28節)。あなたでもなく、あなたの知恵から出たのでもなく、神ご自身が、行動され、あなたを選び、お召しになったのです。
ですから、だれも自分を、あるいは他人を誇ることはできません。誇るならば主を誇りましょう。人間は、高慢になりやすく、同時に劣等感に苛まれやすい者です。しかし誇れるものは主のほか何があるのでしょうか。「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」(ガラテヤ6:4)31節の「誇る者は主を誇れ」とは、エレミヤ書9:24からの引用ですが、エレミヤ書ではこうなっています。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」。同書では、知恵や力や富がある人はそれを誇るのではなく、地上に恵みをもたらし正義を行われる主を知るようにされたことを誇りなさいと命じています。