「土台はイエス・キリスト」

コリント人への手紙 第一 3:1ー17

礼拝メッセージ 2016.3.13 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,私たちは、個人として、教会として、神によって成長させられる必要があります(1−9節)

 パウロはここで奥深い真理を、身近なことをもって、比喩(メタファー)として語っています。混乱しているコリント教会に対して、神と、主の働き人と、私たちあるいは教会、という三者の関係性を教えています。 まず第一は、働き人と私たちは親子であるという比喩(1−4節)、第二に、私たちは神の畑であるという比喩(5−9節)、第三に、私たちは神の建物であるという比喩(10−15節)、最後に、私たちは神の神殿であるという比喩(16−17節)です。
 ここで注目いただきたい視点は、親子も、畑も、建物も、それぞれに両面の立場で考えるということです。子どもの視点だけ、農作物の視点だけというように、片方の、世話をされる側だけの見方で終わってしまうと、この箇所のメッセージの広がりを見落とすことになるでしょう。自分をもう一方の、世話をするあるいは仕える側で、親として、農夫として、建築者として見ることも必要です。
 親が子を育てる、または農夫が作物を育てるということには、明らかな共通点があります。それは、親も農夫も、子ども、作物の世話はできても、自分の力でそれ自体に対して、形を作ったり、生み出したり、成長させることはできないのです。聖書は明確に語ります。生ける者すべてにいのちを与えることができるのも、成長を与えることができるのも、神だけであると(7節)。イエスが山上の説教で「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」(マタイ6:27)と言われたとおりです。いのちと成長を与えてくださる神に感謝と賛美をささげましょう。
 そこで、親や、農夫(農業労働者)は、できることをします。それは、子どもならば、発育段階に合わせて、食物を与え、健康に育っていけるように、あらゆることに心を配ります。作物ならば、土地を耕し、種をまき、そして水を注いだり、肥料をやったり、雑草を取り除いたりして、芽を出し、成長していくように、農夫は世話をするのです。このように働き人は、自分の分を果たすにすぎない奉仕者、働き手なのです。
 仏教の禅に「師にあったら、師を殺せ。親にあったら、親を殺せ」という強烈な言葉があります。立派な教師であればあるほど、それを受け取る側への影響が大きくなり、自立を損なうので、良き教師に出会い、真理を聞いたならば、その教師をむしろ否定し、それを乗り越えて行かなくてはならないという意味です。教師に対する偶像視も英雄視も避けなければ、真の成長はありません。
 それから、ここでパウロが厳しく語っている1−4節のことは、霊的に堅い食物も食べることができるように、成長しなくてはならないということです(ヘブル5:12−6:1a)。


2,私たちは、個人として、教会として、神によって建て上げられる必要があります(10−17節)

 建物で重要なものはいつの時代も変わりません。土台、基礎が建物にとって最も重要なのです。そこでこの比喩で問われていることは、何を土台にして生きるかということです。これもいくつもの立場で見ることが必要でしょう。人生の土台として、家庭の土台、仕事の土台、そして教会の土台は、何を据えているか、ということです。イエスが山上の説教で言われた「岩の上に家を建てる」話を思い出します。イエスのお言葉を聞いてそれを行う人は、岩の上に家を建てる賢い人であり、聞いてもそれを行わない人は、砂の上に家を建てた愚かな人と喩えられています(マタイ7:24−27)。順調で天気が良い日のうちは、何を土台にしていても、大差なく見えます。けれども、雨が降り出し、風が激しくなると、土台が何であるのかが試されることになります。ここでは、イエス・キリストご自身を土台として生きるように明言されています。「その土台とはイエス・キリストです」(3:11)。
 昨年の秋に横浜市内の大型マンションが傾いた問題で、建設時の杭打ち工事で、建物の基礎となっている複数の杭が強固な地盤に届いておらず、杭打ちのデータに別の工事データが転用され、セメント注入量まで偽装されていたことが明らかになりました。その後、データ改ざんされた建物が全国にいくつもあることが判明し大きな社会問題となりました。建築物の土台というのは、見えないというところに落とし穴があるような気がします。私たちの生き方の土台も、教会の土台も、外から見えません。けれども、その見えない土台がしっかりしていないと、その上に建てられた建物はどんなに立派に見えようとも、いつか倒れてしまうのです。メノー・シモンズの最も重要な著作「キリスト教教義の土台」の冒頭で3:11が引用されています。すべての価値判断の基準は聖書であり、聖書の中心はイエス・キリストであるとメノーは確信していました。あなたのすべてにおいて、十字架につけられたキリストを土台として据えてください。自分、お金、世のものを土台としてはならないのです。
 さらに、イエス・キリストを土台として、どんな材料を用いて建て上げていきますか、と質問は続きます。6つの材料が挙げられていますが、最初の3つ(金、銀、宝石)は簡単には燃えない物、あとの3つ(木、草、わら)はすぐに燃え尽きてしまう物です。試すのは、火であると語っています。
 このコリントの手紙第一で、しばしば語られることですが、パウロは「その日」「その時」が必ず来ると言います。終末です。土台もそうですが、建物の良し悪しの結果もすぐには現れません。けれども必ず真価が問われる「さばきの日」が間違いなく訪れるのです。詳訳聖書では、13節はこう記されています。「各[人の]仕事は〈はっきりと、明らかに〉知られる《その真価が示される》のです。というのは、〈キリストの〉日が、それを現わす〈明示する〉からであって、その日は火をもって現われ、その火は各人がした仕事の性格〈価値〉をためす〈評価する〉からです。」