コリント人への手紙 第一 5:1ー13
礼拝メッセージ 2016.5.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,教会および自分の霊的健康を確認する
5章からは、いろいろな実際的問題への対処が記されていますが、この5章はかなり重たい内容です。教会の中に不品行を犯している人が放置されていました。1節に「父の妻を妻にしている者がいる」とあります。おそらく、これは信徒である男性が自分の継母と性的な関係を持っていたのです。実の父親は生きていたのかどうかはわかりません。また、その女性はここで何も言及されていないことから、おそらく信徒ではなかったようです。
続きの2節によれば、そうしたことが周知の事実となっているのに、教会は問題の対処をしないばかりか、「取り除こうとして悲しむこともなかった」と指摘されています。よく言われるように、問題があることが問題なのではなく、問題にどう向き合い、対処していくか、ということでしょう。ここは、霊的な健全性が問題とされていると見れば良いと思います。不品行という霊的病気になったときに、それにどう対処するかということです。私たちは生きている限り、肉体は病気になることがあります。当たり前ですが、肉体が死ねば病気にはなりません。種々の問題が起こることは、生きている証拠です(参照;箴言14:4)。問題は、それを放っておくか、治療するか、です。エレミヤ書8:4に「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。」とあります。倒れたら、起き上がるようにすれば良いのです。
私たちは神によって召され、信仰によって結ばれている共同体の中において、時に応じて、群れの健康を冷静に確認しなくてはなりません。また、自分自身の霊的な健全性はどうかを自己吟味しなくてはいけません。そのとき注意しなくてはならないことは、私たちはともすると、自分自身の問題や罪ついては、福音的な赦しの信仰を適用して、すぐに安心し、他方、他の兄弟姉妹に対しては、一転してパリサイ人のように裁きの思いを持って、問題視しやすい傾向を持っていることを自覚しましょう。それから、パウロがいくつかの不品行に類するリストを挙げていますが、いわゆる性的不道徳だけが罪ではないということです。「不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者」(11節)と並べて他の罪への言及があるのです。
2,教会および自分の霊的病気を治療する
病気であることがわかると(この場合、教会に不品行を続けている人が放置されていたことですが)、次にすべきことは、それに対処することです。教会の場合、このような問題を取り扱う場合に、「教会戒規」(教会の戒めと規則)と呼ばれることをもって対応します。教会戒規の目的は、5節にあるようにその人の「救いのため」です。病気が癒やされ、健全さを取り戻し、回復することが目的です。
私は自分のからだのことでは病院に行くことが億劫な者です。皆さんはどうでしょうか。でも、もし病気になっているなら、そのままにしておくことは良いことではありません。病気の治療のことを考えると、この箇所のドクター・パウロの診断と治療は納得がいくと思います。彼は、何よりも放っておくことに危機感を抱いているのです。この場合、性的不品行ということでしたが、この種の問題は、速く伝染しやすいことをパウロは知っていました。放置していくならば、よりひどい状況に教会がなっていくことに気づいていたのです。6節にあるように、放っておくことによって、互いに対する愛のない無関心を助長させ、キリストのからだとしての健全性を著しく損なってしまうことが明らかだったのです。
5節はどういう意味なのか、種々の解釈があります。でも、根本は「彼の霊が主の日に救われるため」になされることでした。それは単に、教会の交わりから追い出すことではなかったと想像します。ヒントになるのは、マタイ18:15−17です。最初に、一対一の個人的交わりにおいて悔い改めを勧告し、聞き入れない場合、さらに二、三人の交わりの中で勧告し、それでも無理ならば教会の中で、というように、段階を追って、罪を捨て、悔い改めに進むように、回復して再出発できるよう働きかけるのです。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、 ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。…」
実際にこうしたことは、本当に辛く、痛みのあることです。でも、病気の治療や手術のように、治るためには痛みがどうしても避けられないことがあります。一時の苦痛から逃げるならば、元気には戻れないのです。
3,教会および自分の霊的健康を維持する
8節の「純粋で真実なパンで、祭りをしよう」とは、異邦人クリスチャンが多かったはずのコリント教会の人たちは戸惑いがあったかもしれません。パウロはユダヤ人ならば、すぐにわかる話をあえて異邦人クリスチャンたちに語りました。それは彼らがもう神から見捨てられた存在ではないのですよ、あなたがたこそは「神の民」とされており、「キリストのからだ」なのであり、「聖霊の宮」とされていますと、彼らの持つべきアイデンティティに導いているのです。正しい自己理解に立って、本来の健康な姿で歩んでください、と励ましているのです。それは行動を促すものでした。「祭りをする」とは「お祝いをする」と訳せます。礼拝も聖餐式も、主イエスの十字架を覚えて、真実と真理の種なしパンで祝い、喜び、賛美し、感謝することをし続けることこそが健全性を保っていくのです。病気を恐れすぎて、神経質になれば、かえって不健康になりかねません。祝う共同体として、すべては「過越の小羊キリストが、すでにほふられた」ことを確信し、喜び進みましょう。