コリント人への手紙 第一 6:12ー20
礼拝メッセージ 2016.5.15 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,私たちのからだは、やがて復活するからだとなります(12−14節)
すべてのことが許されています!?
「すべてのことが許されています」(12節)とは、人は何をするのも自由であるとの考えです。人間の自由や解放を主張する考えは、昔も今も存在しますが、10章23節にも同様の表現が繰り返されていますので、コリント人の口からよく出て来た表現であったと思います。パウロも、ここでその考えを否定せず、その通りであると言っています。キリストにある者はまさに自由ですから。私たちには実に多くの自由が委ねられています。ですが、それには付け加えるべきことがあると語っています。何でも自由に行って良いのですが、それはあなたにとって本当に益になることですか、また、あなたはその自由を行使することで、何かに支配されるようなことはないですか、ということです。
食欲と性欲は同じ!?
当時、コリンティアゼスタイという言葉があり、これはコリント人のように振る舞うが字義ですが、その意味は不道徳を行うということでした。それほど、この町には性的に乱れた生活が一般化していたと考えられています。ここでパウロが語っている問題も、彼らが遊女や神殿娼婦と不品行をしていたということです。そのような行いが間違いであるとも、改めようともしていなかったようです。そして弁解の言葉が「私にはすべてが許されている」でした。さらに彼らの誤解、あるいは弁解は、もう一つありました。それは、13節にあるように、性的な欲求を食欲と同列に並べることによって、食欲を満たすのが自然なように、性欲を満たすことは当たり前であるとの考えをもって、自分たちのしている行動を正当化しようとしていたのです。しかし、食欲と性欲は同じではありません。食欲も度を越した場合には貪りになり、それは正されるべき問題となります。けれども、性欲は確かに神から与えられた人間の特性であるのですが、正しくコントロールしなくてはならない重大な責任をともなうことです。それは自分にも他者にも非常に大きな影響と結果をもたらすものです。ですから、パウロは、からだは不品行をするためにあるのではなく、主のためにあると強く語ります。
復活するからだとして
15章で詳しく語られますが、キリストの復活からパウロが語るのは、不品行を避けるべき理由として、私たちもやがて復活するという真理ゆえです。死を迎える時、霊や魂だけが神のもとに行って、私たちは終わりません。使徒信条に「…身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。」とあるとおりです。ギリシア的霊肉二元論を都合よく理解して、からだはどうせ悪であり、滅びるだけだから、どうなっても良い、と彼らは不品行の言い訳にしていたのかもしれません。私たちは、心とからだ、霊と肉、教会と日常生活というように、それぞれ分けて理解することがありますが(それがすべて悪い訳ではありませんが)、聖書の示す理解においては、また実際的な面においても、私たちはトータルな(統合的な)存在であることを忘れてはいけないと思います。そのことを最もよく示す神のみわざが復活であるということです。今のからだと全く同じではないにしても、私たちはからだをもってやがて復活するという未来の姿が、現在のからだをどう保ち、どのように管理するのか、を問うてくるのです。「からだは、主のため」にあるのです。
2,私たちのからだは、キリストのからだの一部です(15−17節)
二番目に、不品行を避ける理由は、私たちはキリストと一体にされているという真理から、語られています。16,17節で「交わる」と訳されている言葉は、マタイ19:5で「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」の「結ばれ」と訳されている言葉と同じ語です。この語の直接の意味は「接合する」で、膠でくっつける、接着剤で接合するということです。性の交わりは、ふたりの人を一つにする行為です。ですから、性的不道徳は、大きな過ちであり、自分にも他の人々にも深い傷と大きな影響を与えることを聖書は語っています。自分を欺くだけではなく、他者に対する大きな裏切り行為になります。パウロは、ここでクリスチャンを、主と結び合わされた存在であることを明らかにします。しかも自分がキリストのからだという集合的な神の教会の交わりの一部でもあるので、不品行を行えば、キリストのからだである自分を取って、遊女のからだに接合することになってしまうと戒めています。
3,私たちのからだは、もはや自分自身のものではなく、聖霊の宮です(18−20節)
第三番目に、不品行を避けるべき理由は、私たちは聖霊の宮とされているからです。「聖霊の宮」であるならば、その「宮」の所有者は、聖霊であり、神に帰されるべきです。しかも私たちは、私たち自身のものではないと、神は言われます。あなたはわたし(神)のもの(所有)だ、と。なぜなら、代価を払って買い取られたからです。所有権は神にあるのです。これはキリストの十字架のことを教えています。よく使われる「贖い」という言葉は、まさに「買う」ことであり、「買い戻す」ことを意味しています。十字架によって、神は、あなたを買われたのです。聖書によると、主から買い戻されるまでは、私たちは悪魔に支配された、罪の奴隷でした。しかし今や、贖われた私たちは神の所有とされています。自分のからだを含め、自分自身は、自分のものではないのです。神のものとされた私たちは、神のために生き、神を喜び、この身をもって神の栄光を現すことが、究極的な目的とされているのです。